一肌ぬいだ“東北の次郎長” 福島電気鉄道誕生の秘話

佐伯宗義(元福島電気鉄道会長)

明治の実業家雨宮敬次郎氏は山梨県東山梨郡牛奥村の名主の家に生れた 養蚕・製糸・開懇・製粉・水力電気・鉱山・砂金採取・商品取引所開設のほか東京市電をはじめとする電気鉄道を敷設したことで有名な資本主義草創期の人にふさわしく 八面六管の活躍をした人である 当時福島では雨宮という“宮様”が軽便を敷きに来たといわれていたそうだが その理由は明らかでない
当時福島が生糸絹織物の生産による繁栄の土地であった関係上 先覚者佐藤儀四郎氏らが音頭をとって土地の有志と相はかり福島を起点に信達二郡を結ぷ軽便鉄道敷設の免許を受け全国的に名をはせていた「時の人」雨宮敬次郎氏に敷設を懇請し雨宮氏の手で開通の運びとなったのである すなわち雨宮氏が創立した静岡・熱海・浜松・伊勢・広島・山口・熊本の各軌道を傘下におく大日本軌道株式会社の手によって建設されたものであったが 地方ごとの分立がはじまり 福島では福島県民の手による独立の会社をつくり 移譲を受けて信達軌道と称し本社も長岡に置かれるようになったのである かくて開通した路線のうち桑折迂回路が経営上赤字の原因となったが 大正11年 福島の町はずれの鎌田村でこの軽便鉄道の機関車の煙突から出た火の粉が46戸を丸焼けにするという事件が起こり その損害賠償の請求をめぐって会社は破産の瀬戸際に立つにいたったのである しかし信達二郡の住民は欠くことのできない交通機関としてこの信達軌道の再生をはからなければならないので 霊山村出身の県議で徳望高かった日下金兵衛氏を仮の社長として会社の整理に当ったが 日進月歩の趨勢は蒸気を電気にしなければ住民の要望にこたえかね これには莫大な資本を必要とするので当時任侠の士としてその名も高かった長岡・伊達駅前の住人吉田佐次郎氏に協力を求めたのである そもそも吉田佐次郎氏とは資本を有する人ではないが 古い言菓でいうなら親分肌の人であると同時に一種独得の明治的気質をもち 無欲恬淡 身を捨てて人を救う東北の清水次郎長ともいわれ 下層階級の信頼をえていたばかりか 事業界に裸で飛び込んで人を動かす力をもっていたので この手に負えぬ事業を同氏に託することとなったのである 吉田氏は知人であり鎌田村大火事件に関係していた会津出身東京在住の弁護士風間力衛氏の力を求めた この風間氏も一風変った男気のある人物であったが 同氏と親交のあった私に協力を求めてきた これが縁で信達軌道を電化するために私も一役買うことになった・
私は30才に満たない青年であったが 風間弁護士に紹介された吉田氏の気性にすっかり心を動かされた私は吉田氏が単なる親分的気性から脱皮し思想的にも大正デモクラシーの影響を受けて進歩的であることに共鳴し ここにこの三者が協力し一体となって信達軌道の再生を約することになったのである
私は福島ではこの悲運に陥った信達軌道への投資の道が断たれていたので 同郷の日本レールの杜長五十嵐小太郎氏専務の林甚之丞氏に協力を求めた そこで日本レール株式会社が一応信達軌道を更生せしめるために要する電化資金を立替え 開通後は福島地方役貝が引取ることとし 私が東京を代表して会社の役員におさまることとなった 私は直ちに 償権者の日本興業銀行の松本理事を通し 当時の総裁結城豊太郎氏を説得し 電化に要する資金の一部を借入する見通しを立てた かくして大正13年末より14年にかけ電化の促進をはかるため 千葉の鉄道第2運隊の手によって着工するにいたった この電化に当っては私は勅任官から日本興業銀行の嘱託となった野々村良一氏からアメリカ式の経営調査方法を学び桑折迂回路線並びに同じ赤字線掛田一川俣繰を廃止することが経営上絶対に必要であるとしたが この実現のために吉田氏が発揮した力は大なるものがあった ところがこの工事半ばで吉田氏が病魔のため仙台の東北大学病院に入院するに及び 私が代って事業を遂行したが 吉田氏は電化開通をみずして亡くなられた 同氏の遺言は「佐伯氏に代ってやってもらいたい」ことと 当時27才か28才の若輩ではあったが一の子分として可愛がっていた「坪井万三氏を頼む」との切ない願いであった かくて電化が完成し開通するや 私のアメリカ経営方式に則った計算どおり 乗客は4倍となリ配当1割可能の繁栄を呈するにいたった
信達軌道の電化と時をともにして 福島市郊外の県議佐藤利助氏が 社長の高岡唯一郎氏と福島一飯坂の電車を建設中であったが 東京在住の高岡杜長は同じ東京在住の私と親交があったので 両社を含併することとなり ここに福島電気鉄道の基礎が固まったのである
私は経営を引きうけたが会長にとどまり この電化に協力を求めた金沢街鉄社長から同社の電気技術主任下田与吉氏をもらい受け 同氏を留守番役坪井氏に付け この2人で 信夫山を抜い瀬上・梁川を結ぷこと 飯坂・湯野・桑折を結んで福島・仙台間を直通する専用鉄道を建設することを託して 自らは郷里富山県の一市街化を描いて府県自治の基盤づくりを実現することに没頭した

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