賀川氏と私の結びつき
 前記のように農民運動が発生する社会敵的情勢はすでに進展していた。私は当時福島県小高町という小さな町に、基督教会の牧師をしながら農業を営み、あるいは八沢浦干拓地に指導に当ったり、地方の村々の講演を頼まれて巡回したりしているうち、私にもこうした社会の動きが判って来たのである。
 大正七年八月三日、富山県における女房たちのコメ一揆が起るや、これが燎原の火のように全国に米騒動として拡がり、社会が急にさわがしくなり、都会では労働争議もぼつぼつ起ってきた。とくに大正八年九月、神戸川崎造船所に起こった争議は今までにない大がかりのもので、参加人員一万五千名といわれ、そして指導者の一人はかねて友人沖野岩三郎氏から紹介されている賀川豊彦氏でもあったので、私は社会運動を見学し、次第によっては社会運動に身を投じてもよいと考えたのである。かように賀川氏と私とを結び付ける接着剤の役目をしたものは、沖野岩三郎氏が雑誌「雄弁」(大正七年十一月号)に書いた「日本基督教界の新人と其事業」なる文章であった。
杉山自叙伝p142

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