鈴木は晩年、交流のあった人々について、多くの回想記をものした、しかしそのほとんどは、仙台の第二高等学校に入学した以後に関わった人々である。故郷の小高区の身内や知人については、ほとんど回想記を残していない。その理由は、鈴木が小高区で暮らしていた少年時代に、生家が没落したことと関係があるだろう。鈴木は1917年4月に相馬中学校に入学するが、1年生の時に書いた「我が家」という作文では、以下のように述べている。
 今我が家の歴史を語らんも涙多し。衰替の悲運に遇いたる我が一家はこの秀麗なる町の一角に僅ばかりの資本により、ささやかなる店を開きて糊口しおるなり。
中略
 その昔昨日迄は己が田よ畑よ山林よろ人々に誇りし我が家も一度祖父が事業に失敗せると、父が急の死との為に、今日は数多ある山林田畑も悉く人手に渡り今迄は富豪の夢路をたどれるも、今は一変して貧しき人々の群れに入るに到りぬ (金子勝 1986 96~97p

鈴木の母ルイは夫との死別みよって、「若くしてみよって、自らに残された只一人の男の子を貧窮と屈辱との中に育て来った」(「思想研究資料」160p)。そして少年だった鈴木も母からこの「屈辱」感を受け継ぎ、それを晴らすために勉学み励んでいた。鈴木は「我が家」という作文で続けて以下のように述べている。

 かかる苦境に打ち耐えて成長し来れる自分の双肩は実に我が一家の盛衰を担いおるなり。さらば自分たるもの大いに覚醒し勉強せずして可ならんや(金子勝 1986 97p)

 小高区の身内や知人についてなにがしかのことを回想すれば、否応なしに「屈辱」感に苛まれていた自らの少年時代にも触れざるを得ない。それ故に鈴木は彼らについて積極的に書く気になれなかったのだろう。
 なお鈴木は小高区の生家から初めて離れて下宿生活を送っていた相馬中学校時代に関わりのあった人々についても、回想記を残していない。その理由は「封建的な田舎の中学」に嫌気が差していたからだろうと思われる。

フクシマ・抵抗者たちの近現代史 第四章 鈴木安蔵 柴田哲雄著 彩流社p208

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