小高教会と農村伝道

明治四十三年(一九一〇)五月、健康のため一時郷里大阪府佐野町で静養していた杉山元治郎牧師が小高講義所(以後小高教会と称する)に着任した。杉山牧師は当時無牧となった原町に出張すると共に、大瓶、幾世橋、金房、大田和等に集会を持ち、当時では稀しいオートバイを走らせて活溌に活動した。殊に近隣の農民に福音を伝えると共に、専門が農業技術で元大阪府技手であつた経験を生かして農業の技術指導にも当り、鹿島の八沢浦干拓事業に助言者として活躍し、八沢村に日曜学校を設け、伝道集会を開いて精神面の指導に当ったことは有名である。杉山牧師の自叙伝から小高教会着任当時の状況を抜粋して当時を偲びたい。
「半年あまりそうした療養生活をしているうちに、ほとんど全快した。それで気候のよい郷里地方で伝道の手伝いをするつもりでいたところ、シュネーダー博士から、もう一度東北地方に戻つて来いとの懇望が強い。永い間恩義を受け、病気の間も蔭になり日向になって助けてくれた先生のいうことであるから、東北に行くが、一番温い土地であること、病気のことであるから、半伝道、半療養の出来るところであれば行くと返事した。すると一番温いところは、磐城の平であるが平教会は一寸面倒で、病後の人にはむずかしい。しかし小高なら温いし、信者も数人で適しているから行けと任命が来た。それで明治四十三年七月単身小高に赴いた。
駅前に運送店と宿屋があるが、その二丁ほどの両側には何もない。一本町で中央に溝が流れ、両側は半農半商の町で静かである。有名な俳人大曲駒村の夫人の姉にあたる人が信者で未亡人であり、元宿屋をしていたというので、そこに下宿し、その家を教会の集会にも使つていた。数人の集りであるから至極閑散で、療養伝道にはもつて来いのところである。
少ない信者の中に隣村金房村の奥に住んでいた太田氏がいた。退屈凌ぎに散歩がてら、一ケ月に一度くらい訪問した。その途中、飯崎原というところを通るが、一面の萱野である。聞けば二宮尊徳翁が室原川から水を引き水田にしようとしたところで、表土は一寸赤粘土に見えるが、下は砂礫で、水は浸透して抜けてしまい、しかも南側の籔屋の密集している部落に抜けとうしになりたら問題が起り、さすがの二宮翁もサジを投げたという原である。秋から冬にかけて萱を苅っているとき、百姓達に「一反歩苅り取って何程の金になるか」と聞けば「五円内外になる」とのことである。それで一歩を進めて「もっと金の取れる作物はないか」と聞けば「二宮さんさえ投げた処だから駄目だ」といって問題にしない。飯崎原を通るたびに数度同じことを繰返したがそれ以上発展しない。幸い私の下宿している隣家が飯崎原に二反歩程の萱野を持っている。それで女主人に一反歩に払うから貸してくれ、私はあそこに葡萄、桃、梨などを作ってみる、うまく出来たら皆貴方にあげるというて借り受け、果樹類を栽培したところ、私の予想より生育した。これを見た、今度来た牧師は、百姓の先生らしいということになり、ある日私の家を尋ねて来た人があった。初めはなかなか口をわらなかったが、ようやくいったことは「耶蘇の話は抜きとして農業の話だけに来てくれ」とのことである。それで私は快諾してその村に出かけた。
百姓達はよろこんで聞き、県庁から技師や偉い先生に来て貰わなくてもよい。杉山先生なら気楽に来てくれ、しかも判り易く話してくれると評判になり、それからはあの村、この村と無給巡回教師のように走り廻った。百姓達も私が基督教の牧師であることを知っているので同じ村に数回行くと「たまに耶蘇教の話をして下さい」と切り出して来る。そこで初から聞かないつもりで、心の門を閉じている人に話してもしようがない、が、お世辞にも聞こうと心の戸を開きかけてくれば大いに話そうと話したので、農村伝道の糸口もでき、小高教会建設の際はこうした村々から青年達が集って、土台固めのどうつきをしてくれ、教会の色々な集会にも出席するようになった。(「土地と自由のため」の「小高教会時代」の項から)
明治四十四、五年中にも多くの伝道者、名士が小高を訪れたが、杉山牧師の知友である沖野岩三郎、加藤一夫、山野虎市諸氏の来訪があり、斉藤壬生雄牧師、伊藤広吉氏等の特別集会や日曜学校大会を開き多くの学童、青年を集めてキリスト伝や天路歴程の影絵講話等が行われた。明治四十五年(一九二一)末の教勢報告を見ると会員数は三十六名でその内他出身会員が十八名あり、若い人々の流出が目立って来る。礼拝出席、祈祷会出席は共に一〇名内外、婦人会一〇名、日曜学校出席三十五名と教勢は 低潤であった。
茲で特筆しなければならないのは、教会の財的自立と言うことである。日本の伝道は日本人の手でと言われているが実情は日本の教会殊に東北の教会は経済的に自立出来るものは僅少で大部分は伝道局(米国ミッションとの協力による)の援助によって支えられていた。杉山牧師は自給独立の教会を目指して従来の伝道局の援助を打ち切り、自立して独自の伝道活動を敢行した。それは当然牧師の生活に影響することで、杉山牧師は自ら生活のためにも苦闘しなければならなかった。
大正二年(一九二二)十二月を期して自給独立に踏み切つた杉山牧師はその日から、あらゆる方途をとって生活と戦い乍ら伝道活動をつづけた。
それはやがて無産政党の闘士としての尊い体験であつた。
杉山牧師は郷里から両親を招いて自ら耕地を指導し、農村に養鶏を奨励し、部落の要請に応じて農業技術の講習を実施し、更に農民福音学校を開設して物心両面の指導に当った。そのためには会堂及び教室の建物が必要であった。
氏は当時のクリスチャン財閥であった森村市左衛門氏を説得して資金の応援を得、地元の協力を得て現在の教会所在の場所に土地を入手して、総建坪約四〇坪の二階建会堂を建築し、階上を教会堂に階下を牧師住宅兼農民福音学校教室として愈々本格的に活動を始めることになった。更に小高町に歯科医が皆無であるのを見て、友人藤田医師を招き、藤田歯科医院を開設することに成功した。杉山牧師は余暇を見て藤田医師から歯科医療の指導を受け、やがてこれが杉山氏の杉山歯科医院開業となり政治活動の足場となったことを思うと杉山牧師の活眼は偉大であると言わねばならない。またこの時期に基督者医師山田弘氏が医院を開業して小高の医師界は教会の大きな支えとなった。(以上、相馬市史より)

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