小高の農民高等学校
 杉山は「国民高等学校」の名称の代りに「農民高等学校」と名づけ、大正二年二月をもって開講した。
 第一年は付近の農村青年八名と宮城と会津から来た二名を加えて十名の生徒が集まり、毎日午後教会内で農業一般について講義した。いらい毎年十二月半ばから四月中旬まで約四か月間開講したが、生徒は少いときは二、三人ということもあったが、平均七、八人から十人位であった。月謝は五十銭で、米や麦の物納もみとめた。彼はまた「農業と宗教」という月刊誌を出して啓蒙活動を行ない、また「小高文芸会」を結成し、ときおり雄弁大会を開くなど、青年との接触をはかるとともに、小高の文化向上のために働いた。
 杉山の小高における布教活動のなかで思い出される風景の一つは、彼が当時としては珍しいバイクに乗って活躍したことである。それはSん台の外人宣教師が乗りふるしたものを、その帰国にあたって安く書い受けたもので、その頃福島県の浜通りでは、バイクは平町に数台あっただけで、小高附近では唯一のものであった。小高は一本の道をはさんだ細長い町であったから、彼が上町から下町までバイクの爆音をとどろかせながらひと走りすると、両側の町民は何ごとかと思って表に出てみる、そうすると彼の友人で東京から来て歯医者をしていた藤田氏や信者たちがそのあとをメガホンをもって会合を知らせ、あるいは案内のチラシを各戸に配るなど宣伝に大いに校歌をあげたといっている。しかし時には田圃におちて集会におくれたり、動かなくなったバイクを引っ張って夜通し山道を歩いたこともあった。

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