杉山元治郎は出崎栄太郎と同郷の大阪府泉郡北中通村(現泉佐野市)下瓦屋という大阪湾に沿うた半農半漁の一寒村の出身で、明治18年11月18日生まれ、大阪府立農学校を卒業し、和歌山県農業技手となったが、明治36年中にクリスチャンとして洗礼を受けた。
 41年前の昭和51(1976)年・相双新報という地域新聞に書いた私の記事です。
 出崎栄太郎とは、鹿島町の八沢浦を干拓した人物で、その人物伝を「郷土の先行者たち」という連載記事で書いた、その続きとして小高の杉山元治郎牧師を書いたのです。
 原町の「無線塔ものがたり」というデビュー作を書いた次のシリーズ作品でした。
 神様が引き寄せて同郷の二人を異郷で新しい関係で組み合わせ、新しい役割を果たさせる物語が、百年前の鹿島と小高を含む南相馬で起きた。これは不思議なことで、わたしには神秘です。
 その同じ百年前に、相馬の中学生になった小高生まれの少年が、福島で行われた県下中等学校生雄弁大会で颯爽と彗星のようにデビューします。鈴木安蔵氏です。この人はクリスチャンの両親のもとに明治37年3月3日に生まれ、しかしその直前の2月12日に父親が若くして亡くなり、母と姉に愛されて育ち、学問に秀でた知恵と義侠心にみちた少年になりました。
 やがて日本で憲法を科学として初めて学問にして、それ故に時の軍国主義政府から弾圧され投獄され、悪名高い治安維持法の成立で、名誉ある第一号の逮捕者になった。世間的には不名誉の極みとして指弾されいわれなき苦しみを受けました。言論を封じられ職を奪われ身体的精神的に拘束を受けて耐え忍びました。そしてついに敗戦によって解放されて、栄誉ある勝利を獲得します。
 日本国憲法の設計図を民間憲法研究会の中心で草稿を書きあげ、これがほとんど完璧だと評価されてGHQと日本政府が書きあげて布告。施行されて70年の記念すべき憲法記念日が、さる5月3日に迎えられ、われわれ有志が友人の栗村文夫ご夫妻の発意と主導で浮舟文化会館で「日本の青空」上映会をいたしました。170人が集まりました。
 ほんじつは、その憲法の70年の誕生の記念祝賀でありますとともに、先週の日曜のキリスト教会の誕生日であるペンテコステを祝うためでもあります。
 ペンテコステ(ラテン語: Pentecostes)は、聖霊降臨(せいれいこうりん)と呼ばれる新約聖書にあるエピソードの1つ。 イエスの復活・昇天後、集まって祈っていた120人の信徒たちの上に、神からの聖霊が降ったという出来事のこと、およびその出来事を記念するキリスト教の祝祭日。
 詳しく知りたい方は、お近くの教会で牧師さんにお聞きになるのが一番早いです。シャイな方でしたら、新約聖書の「使徒行伝」という章を読むと、くわしく実況が書いてあります。面白いですから、ぜひお読みください。
 さて、もうひとつは6月10日は、原町教会の誕生日でもあります。明治33(1900)年のことです。当時は原町耶蘇教講義所といいました。太政官政府の規定によって県知事に届けを出しました。許可なく集会や言論が認められない時代でした。
 ほんじつはこの3つをお祝いで企画し、帰還者同胞の元気回復を願って語ります。

 杉山は祖父が熱心な浄土真宗の信者で、朝から晩までことあるごとにまいにち耶蘇教の悪口をいうので、かえって耶蘇教に興味をもって、ある日、教会という所に行ってみた。
 そしたら、どんな悪党がいるかと思ったら、それが親切で知的な人人だった。
 貧乏で金がなくても学校に行けると聞いて、大阪府立農学校の給付生に進み、そこで布施常松という人格者の教師とめぐりあってキリスト教というものに出会い、内村鑑三に熱中して洗礼を受けるにいたります。
 大阪府の農業技手になって身を立て教会で見染めた少女と結婚できるかというところまでいったのに、家が貧乏になったことを理由に破断になった。この失恋で、彼は今後は神のために働くと決意したと自伝で語っていますが、牧師になるためにも神学校に行くのに金がが要る。そこで探し当てたのが、働きながら勉強できるという労働会という制度のある唯一の学校東北学院でした。その当時は欧米と同じ9月から新学期が多かったので、杉山は秋に仙台に行ったのでしたが、下宿も決めたのに行ってみたら入学は来春だという。少ない手持ちのカネでどうやって来年まで半年暮らすか。そこへ友人の加藤一夫から、神学の勉強のために渡米しようと出かける寸前に霊感が閃き「神学を勉強するなら外国に行かずとも日本でもできる」と思って、残った船賃の半分を杉山に送って来た。神のために働く決心をした杉山が、人生のすべての局面において必要な時には神が助けてくれるという実感を体験した、と言っております。これはのちに小高教会の教会堂を建てるときにもそうでした。小高には、かわいがってくれた二代目学長のシュネーダー博士の勧めで、都会の平ではいろいろと教会内に問題があるから、田舎町で温暖な小高で信者が少ないから療養を兼ねて牧会せよという勧誘に応じたのです。とうじは肺結核という国民病がありましたから、最初から困難な都会の教会での牧会でないほうがいいとの博士の配慮でした。
 以下は杉山自身の自叙伝から引用しましょう。

つづき
https://domingo.haramachi.net/haramachi-christ100year/%e5%b0%8f%e9%ab%98%e6%95%99%e4%bc%9a%e3%81%a8%e6%9d%89%e5%b1%b1%e5%85%83%e6%b2%bb%e9%83%8e/

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