原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

戦争と教会

戦争と教会

 戦争中のキリスト教 
昭和12年12月は、戦時中の福島県出身の兵役にある男性にとって最も過酷で困難な試練の時代であった。
 昭和6年9月に満州事変として始められた対中国侵略戦争は、昭和初期からの大恐慌で不況に見舞われ、ヨーロッパ列強の帝国主義に倣った植民地獲得の経済打開の動きだったが、昭和12年7月7日には全面戦争に拡大させてしまった。当時は支那事変と称された日中戦争である。この年の12月には、日本軍は一気に南京まで侵攻し、これを占領した。福島市で開催された731部隊の展示会で、南京虐殺にかかわったある少尉の手帳の中に「俺はクリスチャンなのに、なぜこんな目に遭うのだろうか」という一節を見かけてショックだった。 武器を持たぬ中国人捕虜1万4千人を殺したが、上部からの命令を現場で指揮せざるを得ない状況に遭遇したある少尉の呻吟のメモであった。
 昭和6年初めて召集され、昭和12年に再度召集されて中国で転戦し、武勲をあげて出世したという下士官で旧大田村の出身の老農夫を取材したことがある。たった一度、初めて会った人だったが、聞き書きしているうちに過去を思い出して大粒の涙をぼろぼろと流して号泣し出したので驚いたことがある。
 この人物は南京の揚子江のほとりで、信号弾を合図に両側から機関銃で射殺してゆき、生き残った中国人捕虜を銃剣で刺して殺した場面について証言を残している。
 50年後になおその罪の意識にさいなまれている苦しみに対面して、息を呑む思いであった。
 実際に無抵抗の捕虜を殺した兵も、それを指揮したクリスチャンの将校も、深い罪の渕を抱いて生きてきたのだろうと思うとただ現代にうまれ合わせたというだけで暢気に構えてはおれない。
 ただ文化的な香りのするキリスト教講演会を伝えていた新聞記事はやがてすぐに、困難な時代の教会の姿を伝えることになる。その例を掲げてみる。

 昭和12年4月8日。福島民報。
中村キリスト教会懇談会
中村日本キリスト教会では十一日午後七時から教会員の第二回懇談会を催すが同懇談会は先きに開かれた懇談会における米国からのミッションからの経済的な支援を排除し種々な与件から脱せんとする計画に関し同教会としての具体的方策を論議するものである
 
 昭和12年7月30日。朝日新聞福島版。
 日曜学校献金
〔原町日曜学校生徒一同は一円五十銭を国防献金〕

聖公会 磯山ヨハネ教会

 そんな中で、聖公会の教会が相馬の地に誕生している。

磯山ヨハネ教会の建設
 磯山ヨハネ教会の礼拝堂工事落成 関係者を招いて挙式
(民友昭和11年12月29日)
相馬郡福田村磯浜東太平洋を望み西に鹿狼を負ふ景勝の地に今春来工を進めた磯山聖ヨハネ教会礼拝堂は限りない神の祝福と熱烈な信徒地元関係者後援の下にこの程見事竣工を告げ廿七日午前九時から日本聖公会東北地方部監督神学博士チエヌ・エス・ビンステッド師が司会者となり盛大な聖・献堂式を挙行した定刻一同着席の後十字架捧持者を先頭に聖歌隊、教会、委員、伝道師、聖・監督の順序で静々と入堂厳かな聖堂式を挙げられ続いて神の恩寵に感謝する聖餐式があり祝貿会に移って仙台聖公会宮城好男氏の経過報告・高・村長、福田村会議員総代佐藤幸次郎、福田産業組合長遠藤多平、福田小学校長岡本留之助、仙台聖公会代表石城豊一氏・その他の祝辞があり何れもこの日の喜びと共に二十余年間神の使徒としてこの僻村に止まり人類愛国際親善の楔となって地方文化の第一線にあるアンナ・エル・ランソン女史の高風高徳を讃へ信徒総代三宅□氏の謝辞に次ぎランソン女史は六十三歳の老齢とは見えぬ童顔を感激しながら低いが力強い口調で感謝の言葉を述べ正午一同と共に昼食、午後一時より更に聖洗式及び信徒按手式が行はれて意義深い聖典を無事に終了した新礼拝堂は 村荒利雄氏の請負に係り総坪数二百三十三坪、建坪五十坪の木造瓦葺・家、用材は同女史の心やりから全部地方のものを用ひ総工費約五千円、大部分米国信者の献金に成り信仰の伝道にふさはしく荘厳の内に神気あたりを払ふばかりの威容である

磯山聖ヨハネ教会

 外国人とみればスパイ視され、日本を愛する者も、神の愛を述べ伝えるためにやってきた者にとっても厳しい冬の季節となった。宣教師の国外退去の例として、ランソン女史の場合はこうだ。

 昭和13年7月31日民報。
三十年の憶い出残し
ランソン女史帰る
相馬の浜に住んだ神の使徒
日露戦役の勃発した明治三十七年三十二歳の時渡日して以来三十三年間ひたすらに神の教へを農村漁村の信者に説き続け六年前より相馬郡福田村磯村の海浜に居を卜して朝夕の勤行と共に村民から慈母の如く親しまれていたキリスト教聖公会伝道師米人アンナ・エル・ランソンさん(六五)が思ひ出深い日本を後に九月十五日神戸出帆帰国する事となった、三十三年の日本生活にすっかり血色まで日本人らしくなった、ランソンさんは往訪の記者に上手な日本語で語る
 日本はもう自分の故郷と同じです、生まれ故郷であるワシントンの西六○哩ハーバースフェリーの町に居る兄や妹が是非帰れと云ふので今度帰国することになりましたが本当に日本を去るのは寂しい、日本は善いとか悪いとかとかを超越して離れがたい愛着を感じています
 同女は同村内の洗礼を受た信者約八十名に何くれとなく親身も及ばぬ世話をしていたもので「今度支那事変の銃後と日本の護りの状況はどんな風に見られますか」との問に両手を振って語らなかった

 下記するとおり、古山金作氏筆の相馬市史によるとランソン女史は昭和15年春に帰国したという。

磯山聖ヨハネ教会と新地伝道

 新地は、相馬市と隣接し、福島県の北限、宮城県と界を接し、藩政時代は仙台伊達藩(六十二万石)と相馬藩(六万石)との分界線にあつたから、久しく紛争の絶えなかったところである。ここにキリスト教が最初に伝えられたのは大正九年(一九〇二年)頃、仙台からであった。ここには仙台市の小塚病院分院としての磯浜療養所(磯山サナトリウム)が建てられていた。当時小塚病院に隣りして聖公会経営の青葉女学院(保母養成校)があり、たまたま米人婦人宣教師ミス・ランソン(アンナ・L・ランソン)が院長として在任されたが、在仙中縷々療養と避暑もかねて来所された。滞在中求められるままに入所者に、また村人達に福音を伝えられたのがはじめであつた。その後、年毎に磯浜滞在中は定期的に集会がなされ、次第に伝えきいて青年男女をはじめ村人達が女史を中心に集まり、また、夏期中は在校中の学生達を伴って農繁期托児所を開放し、熱心に村人に奉仕した。
 ラソンソ女史は北米ウイストヴァージニア州の出で、彼地の聖公会神学院を出られて来日、教育と伝道に献身奉仕された。一時東京の立教女学院長をされたが、再び仙台青葉女学院長として再来任されてからは、新地に積極的に伝道され、村民からも慕われ三宅康氏一家をはじめ近親者を中心に全村の関心を集めるようになり、磯山の小高い丘(現在教会堂のあるところ)に永住を期して星見荘を建てそこに移り住まれた。この地の伝道開始以来二十余年にして昭和七年八名の受洗者があり、これらの人々を中心に教会堂建設の議が起り、次第に機運がたかまり、教会敷地と教会維持のために水田一反歩の献納があり、更に聖公会本部よりの援助、信徒及び地域住民の献金奉仕によって昭和十一年十二月二十七日建堂式を挙げるに到った。新地の市街地から遠く隔りたこの景勝の地に堂々たる丘の教会堂が完成したのである。早朝鐘の音に、礼拝聖餐式といそぐ人々、夜はおそく伝道集会に教会の行ぎ帰りに提灯を連ねた村人の行列は、まさに風物詩を展開した。いま手元にある一九六〇年版キリスト教年鑑を開いて見ると現在会員数八七名とある。当時の教勢が思いやられる。その反面村の一部にはキリスト教に対する根強い反対と迫害が行われた事実を教会の古老信徒達は回想するのである。
 ラソソン女史は在日二十年、日米の風雲急を告ぐる昭和十五年の春、六十余歳で退職帰米されたが、その後任として宅間六郎司祭が晩年を終生この教会に奉仕された。
(磯山聖ヨハネ教会と新地伝道 四五九)

 かくて磯浜療養所から始められた新地伝道に忘れ得ないことはここに働かれた高橋功博士の業蹟である。博士は療養所に勤務(眼科専門)一時この地に開業されたが地元住民の信望は高く、医は仁術に徹した博士は夫人と共にその人道的理想を南亜ランバレネのシュヴアイツアー博士の許にその同労協力者として献身されたことである。そのライフワークは著書「シュヴァイツアーと共に」「さらばランバレネ」に詳しい。高橋博士と共に思出されるのは、磯山「観潮台」(潮見の丘)に今も建っている志賀潔博士の記念碑である。博士は嘗て若き日、渡米し、彼地にあって医学の研究と実験に貢献され、(専門は細菌学)彼地の大学から医事功労者として名誉博士の称号をおくられた方である。現在博士の家族は磯山の旧宅に住んで居られる。ここには現在宮城教育大学の学寮があり、そのお世話をして居られる。(相馬市史・古山金作)
 国外追放になった宣教師は多いが、日本に残った人々もある。後に言及する戦後の原町カトリック教会のヤシント・エベール神父も東北伝道に携わっていたときにアメリカとの戦争がはじまり、連合国の母国のカナダに帰国することを勧告されたが、伝道の使命に殉ずる覚悟でそのまま日本に残る道を選び、土浦の外国人収容所で終戦まで拘束されていた。

 戦時下の苦難の時代

 成瀬稿75年略史より。
 「第五章 苦難時代(自昭和十年 至昭和二十年)

 1 昭和十、十一年頃(一九三五、六年)の教会
小野寺牧師着任第二年目を迎えて教会員の転出が多く殊に青年信徒の中心的メンバーが都会に転出して集会の出席者も低下の一途を辿ったようである。長く会計長老の任に当った成瀬鋠一郎夫妻は大阪に去り、高橋千代、寺島春義等は東京へ、沢田、鎌田、塚田等は仙台へ転じ教会は活動分子を失ったような状況であった。尚鎌田清二は伝道を志して東北学院神学部に進学したが在学中に病死した。
 このような時代にも教会は絶えず生き続け十一年三月には婦人伝道師鈴木淑子が来任して、女子青年会白百合会を発足し八月には渋佐海岸で四日間の海浜学校を開設して二四名が参加し、特別伝道としては三月にシュレーヤ宣教師及千葉太郎牧師の集会があって四五名の出席を見、七月には道旗恭蔵の特別伝道を催して五六名の出席者があった。
 昭和十二年(一九三七)鈴木淑子婦人伝道師は新庄教会に移り、代って金子秋子が着任した。
 (註)当時婦人伝道師が活躍しているが婦人伝道師と言うのは教会の婦人達の手によって婦人伝道局がつくられてその事業として婦人伝道者を養成して主として牧師を助ける働きをした。東北教区内では宮城女学校内に聖書専攻科を置いて婦人伝道者の養成機関とし各地の教会に働く人を送っている。この頃の教勢は一進一退の状況で集会等は余り振わなかつた様であるが五月には久布白落実が来援して日本基督婦人矯風会の講演会があって多くの婦人の聴衆をあつめ、また萩原信行牧師(東二番丁教会)の特別伝道会があって三八名の出席があった。
 昭和十三年(一九三八年)から同十八年(一九四三年)までの教会記録及資科は皆無なので教会の諸活動の記述は不充分であるが教会内部よりも寧ろ日本キリスト教会東北中会の事情や次いで時局下に於けるキリスト教会全般に亘る大きな変動期の中で教会の宣教活動は動きのとれない状況に置かれるようになったことが特記すべき事と思う。
 創立当時の中心的役割を演じた信徒や協力者たちが次々に逝去したのもこの頃であつた。

2 教会の自給独立
 アメリカとの国交問題が険悪になるに従つて教会もアメリカの教会に依存する訳には行かなくなり、日本の教会は日本独自の教会として自立することの急務を訴える人々が多くなって来た。原町教会の属する東北中会の中にもアメリカ教会の援助の許にあることを排し経財的にも自立する必要を主張する牧師と、従来の協力関係を持続することを主張する牧師とが対立し、東北中会はアメリカ教会の援助をたち切ることを採択した。これに反対する人々は新たに奥羽中会を設立することになり、各牧師各教会はその何れかを決定することになった。
 原町教会も教会総会を開いてそのことを議することになった。不幸にして牧師の意見と教会の意見が別れ、小野寺牧師は奥羽中会につくことを主張し、教会は東北中会に属することを希望した結果、小野寺牧師は原町教会を去り小高教会と共に奥羽中会に属することと成った。然し原町教会はその結果従来の、ミッション補助は終止符をうち財政的自給自立を敢行することに成つたので、阿部喜一、遠藤剛男等が中心となって教会財政自立の決意をもって教会運営にあたることに成った。
 そして独立最初の教師として古山金作牧師が着任した。
 小野寺牧師は小高に去ったが間もなく牧界を去り実業界に投じたが最後は失意であつた。」

 古山金作牧師の就任と
 原町日基教会創立40周年

 福島民報の「原町短信」(昭和15年6月9日)に次のような記事が記されている。

 相馬郡原町幸町の原町日本キリスト教会(役場東隣)は明治三十三年六月の創立で九日を以て満四十周年に相当すると共に今回古山金作教師の新任を迎ふることとなったので同教会では当日午後二時から感謝記念礼拝伝道教会建設式並びに主任者就職を挙行するが司式者は仙台市荒町教会角田桂嶽師である。

 記事文中の伝道教会建設式というのは、日本キリスト教会とメソジスト教会、デサイプルとの三教会合同協力による伝道活動のための新事業の発足を意味する。

古山金作牧師の就任と
原町基督教会創立40周年

 古山金作は、1904年(明治37年)飯坂町湯野生まれ。1925年(大正15年)5月30日受洗。1935年3月同志社神学部修了。1935年(昭和10年)~1936年5月、福島教会第六代副牧師。
 1943年(昭和18年)~1943年12月、福島教会第九代副牧師。1944年(昭和19年)~1945年4月、福島教会第七代牧師。
 1978年(昭和53年)3月6日死去。
(福島教会 教会形成時代)
古山金作

 成瀬稿75年略史にはこの時の様子を記録しているので下記に掲げる。

 再び成瀬稿75年略史より。
「3 昭和十四年(一九三九)以降
 前述の通り米国教会の援助を絶って新しく自給独力の教会の第一歩を踏み出した原町教会は従来年々八百円から一千円の、ミッション補助金が絶たれ教会員の責任も重くなり牧姉の生活も極度に苦しい立場に立つことに成つたが、信仰的には寧ろ意気あがり、古山牧師を先頭に勇敢に時局に立ち向うことになり、先ず原町の三派教会の合同の協議会を開き下町教会(デサィブル派)から青田、武藤、メソジスト派(石川組)から高篠あい、佐藤馨、原町教会から阿部喜一、遠藤剛男、末永好、物江きよ等が原町教会に会して佐藤馨司会の許に協議を重ねた。そして合同のための協議会を引続き開くと共に、合同クリスマス、合同修養会等を開催することとした。
 昭和十五年(一九四〇年)には村岸清彦牧師を迎えて各教会合同をもつて浜通り信徒修養会を原町教会で開催し、また村岸牧師の特別伝道集会を開き二十四名の出席があり、同年六月には教会創立四十周年記念礼拝を催して角田桂嶽牧師の説教があり、同時に原町伝道教会が成立したので伝道教会設立式を行ない、中会から小林亀太郎牧師、角田牧師が派遣された。その日の出席者二十六名で、教会員の総数は十六名であった。同年六月十一日杉山元治郎代議士の国民精神作興講演会を公会堂で開催し二六〇名の聴衆があつた。尚杉山代議士旧知の人々が会して懐旧懇談会を開き遠藤一家経営の聖療園を慰問した。
 この頃は、戦況が日増しに苛烈を加え、宣教は極度に困難になって来て警官が信徒の家庭を訪問して威嚇を示し、礼拝には私服警官が来て牧師の説教をメモすると言う検閲の厳しさを加え六月三十日には原町飛行場の一部が完成して祝賀会が挙行されるという暗黒日本の開幕の時であった。国民総動員の政策の中で古山牧師も徴用を受けて、高倉鉱山に転属され、教会の宣教活動は硬着(膠着)状態となった。
 そして昭和十六年(一九四一年)六月には日本基督教団の成立を見るのであるが、同年四月古山牧師は同志社大学神学部の研究科に入学のため原町を去り同年八月京都西京教会牧師に就任した。」
 注。成瀬稿「古山牧師も徴用を受けて、高倉鉱山に転属され」とあるのは、原町牧師時代ではなく、福島教会時代のこと。

 相馬市史から、次に戦時中の教会の項目を引用する。古山金作氏の稿だが、古山氏は最戦時中、原町の教会牧師であり、困難な時代に憲兵や特高刑事らと交渉に当たった。(相馬のキリスト教(古山金作〕四六四頁)

 時局は刻々緊迫の度を増し、昭和十五年「皇紀二千六百年」を盛大に祝賀する頃、戦時色は一層色濃くなって来た。とりわけ原町は海岸線防備の拠点となり、雲雀ケ原(野馬追原)は急遽軍用飛行場となり、連日急降下爆撃の訓練飛行が繰返され用地への立入りは勿論、遠方からの、展望撮影も禁止された。ここに高射砲陣地の構築、高松に騎兵隊営舎の急造が予定され、これに伴って原町憲兵分隊が設けられ、原町警察署には特高警察が強化された。キリスト教は敵国の宗教と看倣され、教会は四、六時中憲兵特高の看視の下におかれ、日曜礼拝には必ず特高の刑事が後方座席で説教をメモしていた。古山牧師は昭和十四年仙台荒町教会から赴任して間もなくこの緊迫した中で復興開拓伝道に苦心した。当時の週報を見ると、二月十一日紀元節に特別伝道礼拝を行い国民儀礼にはじまり「肇国の精神と神の国」の説教題で説教している。一口、口をすべらせば逮捕拘留も覚悟せねばならぬ。六月には翼賛議員杉山元治郎氏を招き原町小学校講堂で時局大講演会を催した。杉山氏は「国民精神作興とキリスト教」について講演し聴衆三〇〇余名という盛会であつたが、この準備と跡始末には牧師は連日特高と接衝しなければならなかつた。(相馬市史)
 
 原町に憲兵分隊が設置されたのは昭和15年のこと。雲雀ヶ原に陸軍飛行学校が設立されたため、これの警備を兼ねての同時開設であった。相馬市史には雲雀ヶ原が「急遽軍用飛行場に」とあるが、最初から軍用の飛行場として設備された。昭和11年に一度開場し、15年には熊谷陸軍飛行学校の分校が設置されたもの。

 村田四郎東京神学校長の舌禍事件

 昭和14年の日本基督教会40周年と同じ記事には、続けて杉山元次郎代議士の来町と講演の予告を告げているが、その演題は戦時色濃いものである。

 産業報国連盟理事、現代議士杉山元治郎氏は国民精励強化講演会講師として十日来町の上十一日午後七時半から原町公会堂で「皇国神社とキリスト教」と題し、また十二日午前中を相馬農蚕学校で「時局と宗教」なる演題で学生講演会を開く筈である

 皇国史観で国民を教育し、天皇を神として崇めることを強要する社会体制の下で、異国(敵国)の宗教とみなされたキリスト教会は日増しに国家の支配を受け、その干渉の中で信仰を護るために献金や勤労奉仕を行った。

 昭和14年2月20日、民報。
浜通り通信「北相」〔中村町日本キリスト教会では旧鑞催したクリスマスの剰余金六円を十七日中村署に稲刈牧師が持参し□兵費に献金方を寄託した〕

 ほかの宗教もまた、国家の意向に沿うような行動が期待され、組織を護るために従った。

 昭和15年5月17日。東京日日新聞福島版。
 〔原町天理教信徒六十名は十八日の奉仕日に雲雀ケ原の整地作業に奉仕〕

 そんな中で、昭和15年8月に中村教会で行われた特別講演において、東北伝道中の東京神学校長村田四郎の舌禍事件が起きた。

 昭和15年8月20日・福島民報。
 不穏当な言辞を弄し
  日本神学校長
   中村署で取り調べ
先づ日本人に帰り新東亜建設に挙国一致の戦時体制下に在るとき東京市渋谷区竹下町一五日本神学校長中村四郎(五四)氏は東北伝道の途次十八日夜七時半ごろ中村町日本キリスト教会で説教中不穏当な言辞を弄したこと中村署の探知するところとなり十九日午後三時原釜海水浴場から引致され取り調べを受けている

 同じ日付の朝日では次のようである。

〔時局を認識せぬキリスト教講演会
 村田四郎氏中村で舌禍
東京市渋谷区竹下町一五日本神学校長村田四郎氏(五〇)は宮城県古川町で講演後十八日午後八時から中村町日本基督教会堂で同様講演したが十九日午前十一時突如中村署に召喚され三澤特高主任係りで長時間にわたり取調べを受け午後五時帰宅を許された同氏の講演中時局に副はぬ言辞を弄したとの嫌疑によるもので同署では調書を取つた上始末書を取り、この処分問題については県特高課に一任した、右につき阿久津署長は語る
 日本国民が神様に礼拝してゐるが偶像に礼拝しても何になる、また支那民衆が欧米依存の念がなくならない等といふことは興亜のため力を注いでゐる現在のわが国体にとってゆるせないことだ〕
(東京日日新聞福島版昭和15年8月21日)

 中村教会長老の鎌田昌次郎(当時・相馬中学教師)はこの時のことを回想して次のように記している。(中村教会90年史)

 村田四郎先生
 日本神学校長村田先生は大戦間近い頃講演に御出で下さった。基督教会が官憲から睨まれ出した頃であるから、夜の集会の前、先生に特高などが来るかも知れないとお話して先生も充分注意して講演をせられた。翌日午後は鎌田宅で、婦人会の集りがあり将に開会しようとして居た時に警察が来て、先生は警察署に出頭を命ぜられた。一寸のことだと思って待って居たが遂に夕方まで帰られないので会は流会となった。前夜の集会に特高が来て居たのであった。先生は何も法に触れるような事を話されたのではない。当時日本軍は支那に宣撫班を派遣して居たので、宣撫は愛情を持ってしなければならないという話から、例として、アメリカの婦人宣教師が支那の田舎に入り、真の愛情を持って伝道し世話したので、人々は非常に懐き尊敬し、多年生活を共にした宣教師が引き揚げる時は、人々は別れを借しんで悲しんだ。こういう宣撫の仕方は立派である。というような話をされたのである。
 ところが日本の宣撫を批判し、アメリカ人を賞賛したのが良くなかったのだそうである。何でもない当り前のことさえ述べることが出来ない怖ろしい時代であった。基督教関係の牧師さんや教師などで投獄されたり、拘引されたり、其他辛い目に遇った人々が多数あった。鎌田も教会関係であり、外国人と交り、文通して居るとのことで憲兵が来て、学校長を通じて調べて行った。又正式ではなかったが、県教育委員の一人から、教会で話をすることは注意した方がよいと言われた。
 然し学校内で伝道するのではなく、教会で話するのは信仰の自由であるから差し支えないと思い話は止めなかった。精神作興週間というのがあった時、中学校では生徒銘々に祈願文を奉書紙に書かせ、之を集めて桐の箱に入れ、中村神社に奉納するということが職員会議で決議されようとした。クリスチヤンは之に賛成することは出来ない。若しどうしても強行するならば、基督教関係者を除いてやって貰い度いと鎌田は反対し、遂に実行されないで了った。又、防諜週間などがあった時には特に教会が誤解され、スパイする者が中に居るようなことを言われ甚だしく迷惑したこともある。

 古山牧師はこの事件について相馬市史の記述で次のように言及している。

 その頃中村教会では藤本牧師が着任間もなく(八月十九日)日本神学校長村田四郎氏を招いて特別伝道集会が行われたが、たまたま説教テキストが「この他の者によりては救あることなし」(行伝四ノ二一)が当局の忌避に触れて警察に抑留され、翌日予定された教会婦人集会はお流れになった。教会に出入りする者は信者求道者を問わず刑事が家庭を訪問しスパイ嫌疑で尋問するという有様、従って未信者婦女子の出席は減少、教会の維持すら困難であった。古山牧師は時局の前途容易でないことを洞察、折柄同志社大学の大塚教授の特別の招きで二ケ年間大学院での特別研究を許されたのを機会に教会を辞去して十六年四月上洛した。その後原町教会は無牧のまま会堂は鉄道教習所に強制借り上げされた。
 戦局は苛烈になるに伴い宗教団体法及治安維持法等の戦時立法がいよいよ強化適用され宗教活動は極度に制約され、ついにはすべての集会は停止されてしまうありさまで、一般信徒の中には官憲の偏見をおそれてあるいは転向し、あるいは惑わされて信仰をすて、時局の中に埋没するものも続出した。そのような状態の中で藤本牧師は国家総動員法で徴用を受け海軍省航空廠に勤務を余儀なくされ、教会は牧者を失って殆んど閉鎖の有様になったのである。
(相馬のキリスト教 相馬市史より)

 昭和16年には中村教会が独立した、との報道がある。
 昭和16年9月23日・福島民報。
〔中村独立キリスト教会建設式
中村独立日本キリスト教会建設式は二十一日午前十時から大手先の教会で行はれ準備委員五木田薫氏の経過報告後既報の長老並に主任牧師の□職式に次いて東北中会派遣委員角川桂嶽、梅津吉之助両氏の宣誓、問安、祈祷並勧告があって祝辞、祝電の披露で盛儀裡に式を閉ぢた〕

 ここで独立とあるのは、自給独立のことである。伝道教会という名称は、補助金をもらって援助される段階。つまり外国からの援助で、外国のイデオロギーを取り入れた宗教は自主的なものでなく日本人にとって相応しくないとの判断によって、すべての日本のプロテスタント教派は国家の要請で昭和16年に強制的に合同させられた。
 プロテスタント諸派の合同は、明治以来の悲願ではあったが、自発的なものではなくそれが天皇制の下での国家による命令による合同であったことは同教団の戦後の原罪となった。
 教会が援助を受けて存立するのでなく、自給独立することは、信仰者にとって誇りとなる。しかし昭和16年時点での独立というのは、まったく国家の要請に対応するものといってよい。

 藤本光栄(中村教会元牧師)の回想
 
 「徴用令書を受けた日は長女が亡くなりお通夜で取り込んで居る時でした。それから一週間して相馬を立たねばなりませんでした」
 と藤本牧師は回想する。以下同じ。
 私の牧師在任中の事を考えても、昭和十五年に就任しましたが、其の二、三年前から軍国主義の色調がこくなり、キリスト教が国家主義と反するものと考えられ、昭和十五、六年になると特高警察が教会の講壇説教にまでもふみ込んで来るようになりました。日本神学校の学長・村田四郎先生が中村教会で伝道説教をした時、私服の特高刑事が聴衆の中に入って来て説教の内容が日本の国家主義と反するとの理由で拘引され、警察に留置される時代でした。
 昭和十六年日本が戦争に突入する事によって伝道が更に困難になって来ました。牧師である私も国民総動員法で徴用を受け、海軍省の航空廠に勤務をよぎなくされました。
 当時徴用を受ける事は軍関係の労務につくのが普通でしたが、人事課長が私の履歴を見て海軍省内にある青年学校の教官に任命しました。戦争が烈しくなり、学童疎開で都市区から比較的安全と思われる田舎に疎開が為されて居ましたが、中村教会も学童疎開の生徒を受け入れるようになったと妻から手紙で知らされました。戦争当時キリスト教は敵国アメリカの宗教と考えられ、私の留守中しばしば特高刑事が玄関に居座ってスパイ活動でもしているのではないかと妻は問いただされました。
 先輩の牧師の中には信仰の故に獄に投じられた者や「天皇は神ではない」との当然の事を言う事によって獄死するものも居ました。まさにキリスト教信仰史に於いて苦難の多い時代でした。(九十周年記念集)

 日本基督教団の成立

 昭和15年8月31日、福島民報に「神の教へも新体制・キリスト教会大同団結」という記事が載っている。
 メソジスト教会や日本基督教会など日本のプロテスタント各派の教会代表が集まって、外国からの経済援助、宣教師の排除などを採択。合同団結して日本基督教団という単一統合の宗教団体結成を決め、欧米神学に影響されない日本純正のキリスト教の誕生と謳われているものの、「皇紀二千六百年記念日本キリスト教大会には宗教団体法に初めて宗教法人として認められたことを記念する」と報じられており、文字どおり天皇制の下に認可された宗教という国家との屈辱的な妥協の産物であった。

 プロテスタント諸派の合同とデサイプルの合同支持

 「一九三九年(昭和十四)一月十八日、平沼内閣によって「宗教団体法-」が議会に提出され、超非常時局大政翼賛議会はこれを難なく通過させた。この法律では宗教団体を設立しようとするときは、一定の事項を記入した規則を作成して文部大臣に提出し、その許可を受ける必要がある。その見返りとして、認可された宗教団体は文部大臣の保護監督の下にあって、一定の利益をうけ、例えば戦時体制下にあって他からの指図や干渉からのがれ、それ自身の教務を完全に執行することができる。
 当時のキリスト教界は、三十余の教派にわかれ、その組織は民主的で、各々別個に活動し、その多くが欧米の教会と関連をもっていた。このままでは、文部大臣の管轄下に入らない「宗教結社」となり都道府県知事に結社の届けを出さざるを得ず、内務大臣の監督下で厳しい取り締まりをうける恐れがあった。
 基督教会(ディサイプルス)は昭和十五年十月十六日聖学院中学で教役者会議を開き、大合同支持を議決翌年六月の教団創立とともに、第三部に所属することになった。」
 日本基督教団(編)日本基督教団史 日本基督教団出版部(一九六七)

 一九四一年(昭和一六)
 全教派の大合同教会成る

ヤング夫妻

 昭和一六年に入って、日米関係は一触即発の状態になった。各国大使館や各教派の伝道局は在日宣教師に帰国を勧告し、多くの者はそれに従った。わが基督教会のヤング夫妻は三月に帰米し、残るはマコイ夫妻のみとなった。時局の緊迫は、全教会の大合同について一日の猶予をも許さなかった。前年一〇月の信徒大会の決議に続いて早速合同準備委員会が発足し、各教派の信条や伝統の相違から難行したが、外的圧力もあって、一六年三月には合同教会創立委員会(委員三一名、千葉儀一を含む、委員長富田満)が作られ、六月二四、五両日富士見町教会で日本基督教団の創立総会が開催されるに至った。
 ただし、準備段階で大きな問題となった各教派の信条と伝統とを持続し得るようにするため、暫定的に部制合同によることにした。この大合同に参加したのは三十三派(信徒数二四○、六二○)で、参加しなかったのは聖公会とセブンスデー教会だけであった。(注、聖公会は単独の教団設立が認可されず、一八年七月、六〇余の単立教会として参加し、セブンスデー教会は一九年六月解散を命ぜられた)。合同教会は一一部から成り、わが教会は第三部、四谷ミッション系(東京基督教会)は第一〇部に加入したが、雑司ケ谷ミッション系は上富坂教会のように閉鎖した所が殆んどで、細々と家庭集会を続けたようだ(昭和四八年、お茶の水キリストの教会小幡史郎)。日本基督教連盟、日本日曜学校協会などは発展的解消を遂げた。なお創立総会の各派割当て議員数はつぎのとおり。
第一部 日本基督教会      八六名
第二部 日本メソジスト教会   六三
    日本美普教会       四
    日本聖園教会      ——–
第三部 日本組合基督教会    四七
    日本基督同胞教会     四
    日本福音教会       四
    基督教会         三
    基督友会        ——–
第四部 日本バプテスト教会   一〇
第五部 日本福音ルーテル教会  一○
第六部 日本聖教会       ——–
第七部 日本伝道基督教団(日本イエスキ リスト教会、基督伝道隊、日本協同基督 教会、基督伝道教会、基督復興教会、日本ペンテコステ教会、日本聖潔教会)                 一四
第八部 日本聖化基督教団(日本自由メソジスト教会、日本ナザレン教会東部部  会、同西部部会、日本同盟基督教会、世 界宣教団)          一〇
第九部 日本きよめ教会、日本自由基督教 会              一〇
第一〇部 日本独立基督教会同盟会(ウェ スレアン・メソジスト教会、普及福音教 会の一部、一致基督教団、日本聖書教  会、東京基督教会、聖霊教会加入)一三
第一一部 日本救世団(旧救世軍)一〇
推薦議員            一〇
              計三二〇
 創立総会(わが教会から千葉儀一、石川養之輔、友野三恵が議員として出席)では教団規則を可決し、統理者に富田満(旧日基)、代務者に小崎道雄(旧組合)を選んだ。一一月二四日に文部省から教団の設立認可が下りた。政府は仏教の各派の統合も進め、キリスト教では日本天主教団(統理土井原確)と日本基督教団の二つを認めただけであった。(注、教団名については「基督教会」としてはという意見もあったが、それではわが教派と同じになるというので「日本基督教団」に決まったのだ—-千葉儀一談)
 昭和16年当時の教会月報は、
 「基督教会の年会は教会大合同への参加を決議したので、五○年の歴史を持つ年会も今回で最後となり、従って総務委員会もなくなり、今後は年会で挙げられた実行委員会が処理して行くことになった。その氏名は 委員長=千葉儀一(東京)」と記しかつての原町基督教会牧師だった千葉儀一が、旧教派の幕引き役と新生の日本基督教団の創立メンバーの一員であることを示している。(デ史)

 戦時下のキリスト教界 

 戦時下のキリスト教界 昭和期後半のキリスト教界は、昭和一六年一二月の太平洋戦争突入、二〇年八月の敗戦、二七年四月の平和条約発効(独立回復)など政治動きに影響されるところが多かった。苦境に立った教団日本基督教団の成立半年後、日本は太平洋戦争に突入、教団はきびしい戦時下の要請にいかに対処して行くかという苦しい立場に追込まれた。軍事政府と憲兵がキリスト教は国体に反するとして圧迫の挙に出たので、全教会と全信徒とを保護することは容易でなかった。教団が国策に追従し過ぎ、自信を欠いた動きをしたとしても、止むを得なかったと見るべきであろう。
 弾圧と迫害 キリスト教会と教徒に対する迫害は、すでに戦前から顕著であり、昭和一五年八月には賀川豊彦が反戦思想を宣伝したという理由で憲兵隊に拘引され、投獄された。開戦後の一七年六月にはホーリネス系聖教会・きよめ教会に属する教職一○六名が天壌無窮の皇運と国体に反する教義(再臨信仰・終末思想)を宣布したという理由で検挙され、四一名が一~四年の刑をいい渡された。ついで一八年四月には両教会が結社禁止処分にあい、教職たちは生活にも困窮するに至った。(拘引中に一名、釈放後に二名の教職が病死した)。教団未加入の聖公会教職)にも投獄されたものがあり、セブンスデー・アドベンチスト教会では一八年六月全教師と有力信徒が検挙され、一九年六月に教会の解散を命ぜられた。
 報国団と練成 教団では開戦前から基督教報国団を組織していたが、開戦後はこれを強化し、地域の防災、託児、国債割当など戦時緊急事項の処理に協力した。一方文部省からの要請により、教師たちに大東亜における日本の使命を理解せしめるために練成会を開いた。「日本的基督教」が好んで口にされるようになったのはこのためである。教団は中国、フィリピン、インドネシア等に多くの教師を送り、現地の教師信徒との交わりを深めた立教団はまた文部省の要請により、戦時布教指針を発表したが、それは宗教報国、日本基督教の確立を骨子とするものであった。
 空襲決戦下の教会 昭和二十年に入ってドイツは撃破され、日本に対する空襲は激化した。帝都はたちまち焼け野原となり、多数の教会が罹災した。この間にも教団では、困難な信仰告白よりもまず「信仰問答」をと、その作製に努め、二十年五月文部省に草案を提出したが、文部当局は、現人神なる天皇を神とキリストの下位においていること、キリストの復活信仰は幼稚な迷信であるとして不満を示し、改正を要望した。その帰途、統理者富田満と教学局長村田四郎は「いよいよ殉教かも知れぬ」と語り合ったという。圧迫は日に日に激しくなったが、この問題については、文部省から何の連絡もないままに終戦となった(東京教区史)。

 日基原町幸丁教会
 
 成瀬稿日本基督教団原町教会75年略史はこの間の事情を次のように書いている。
「4 日本基督教団の成立と終戦
 戦局の進展に伴って戦時態勢の国策の一つとして企業合同があつた。あらゆる企業は戦力増強の目的で合同の策がとられたが宗教団体もその例外でなく、宗教団体法が成立して、プロテスタント教会の合同が進められた。
 日本のプロテスタント教会はこれを神意と受けとめて大同団結を決議し昭和十六年(一九四一)六月、日本基督教団が成立し、原町教会も日本基督教団原町幸丁教会と名称を変更し、宗教団体法の規制を受けることとなった。従ってその規定によって古山牧師辞任のあと主管者を置かなければならないので、平教会(いわき教会)の中村清次牧師が兼任することとなり、月一回出張して教務に当ったが、宗教活動は殆んど不可能となり、会堂は鉄道教習所の教室に転用され建物は日に荒廃していった。その間教会敷地の一部(約四〇坪)が道路設置の名目で無償収用され、接渉の上敷地西側に二〇坪の代替地を求め敷地は百七十五坪に減少した。
 昭和二○年(一九四五年)一世紀の敗北を喫して十年間に亘る戦火はその幕を閉じた。」

 成瀬稿による最初の教会史パンフレット65年略史では、信者の態度に対する表現がやや異なる。
 「プロテスタント各派はこの期を神意と認めて合同を決議し昭和16年(1942年)30教派が合同して日本基督教団の成立を見るに至り、日本基督教団原町幸丁教会と名付けて、合同最初の牧師として古山金作牧師を迎えることになった。古山牧師は自給教会最初の牧師として非常に困難な中に教会に当たった。遠藤剛男、阿部喜一、佐藤馨諸氏が教会の危機に対処してその運営を助けた。
 時局いよいよ苛烈を加え、古山牧師も炭鉱方面に徴用されて出働、続いて福島教会副牧師に招請を受けて原町を去ることに成って、すべての集会は停止のやむなきに至り、教会堂は一時鉄道教習所に転用されることの成り、その混乱不況の機に教会敷地の一部は町の行政区画整理を理由に無償接収されて現在の教会東側の道路が出現した。
 信徒達は官憲の偏見を恐れて或いは転向し、浅薄な排米英思想に惑わされて信仰を捨てて時局の中に埋没する者が続出するという最悪の事態に直面したのも止むを得ぬことと言はねばならない。
 基督教は徳川時代当時のような苦境に立ち、獄中に病死した牧師も多数生じた。教会の十字架は撤去を命じられ、教会の集会には特高が私服で偵察し、教会の名簿記録等は官憲に没収されて遂に帰らなかった。然しその間にも数名の信徒は教会の管理に当たり、法の定めに従って、平市の磐城教会牧師中村佳次牧師が兼務主管者として教会は存続したが、宗教活動は不可能の状態となり、やがて終戦を迎えた。」

 成瀬氏は、65年史から75年略史に改稿するにあたって赤字の部分を削除して、やわらかい表現に直している。信者や警察に対しての非難がましい批判が表面に現れすぎる、と思ってのことだろうか。
 時代が変われば、信者や牧師ら信仰者をとりまく状況も変わる。確かに戦時中は信仰者にとって困難な時代ではあったが、豊かで自由な時代と思われている今日の状況もまた、別な意味での困難で深刻な時代なのではなかろうか。

 敗戦によって日本の社会は劇的な変化に直面した。旧体制が崩壊する。
 昭和21年、年頭には「天皇の人間宣言」が行われた。
 いったんは合同した日本基督教団から、ホーリネス教会がいちはやく離脱し独立した。一度は天皇制を呑み込んでしまった日本基督教団にとって、みずからの腹の中から再び別教派を吐き出すことは、苦い体験となったのである。
 終戦後の状況については別にあらためて筆を起こすが、成瀬氏の旧稿で前半をしめくくることにする。
 
七、終戦后の教会

 成瀬稿65年略史。
「昭和二十年八月十五日遂に終戦の詔勅が下り無謀な戦争は夢のように去った。美しかった日本の国土は焼土の如く荒廃し、朝野を挙げて虚脱状態のうちに、日本は米軍の占領下に置かれることに成り、今更の如く無謀な戦争を反省した訳であるが、精神的支柱を失い敗戦の空しさの中に再起の希望もなく茫然自失した国民は、戦力に破れて、その魂をも失なう危険の中におかれた。政府は道義昂揚のためにあらゆる手を打つたが、政府自体何等の良策も見出せない状態であった。そしてこの苦難の中に脚光を浴びたのが基督教会であった。仏教も神道も戦后の、国民に対しては全く無力であった。
 日本全国の基督教会は一斉に宗教活動を開始した。名目だけの信教の自由によって実際には重圧を加えられていたキリスト教会は、漸く日の目を見ることに成ったと言える。原町教会も中村牧師によって集会が再開され、月に一・二回中村技師が出張して指導に当つたが若い世代は勿論“精神的より所を失い、飼ふ者なき羊のような町民にとって、教会は唯一の憩いの場となるかに見えた。
 日本全国の教会は殆んど例外なく集会毎に超満員という状態であったが、これは果して基督の福音が人々に共感を呼んだためか、キリストの恵が人々の魂を救いに導く本当の姿であるか一考を要することである。皮肉な言い方をすればマッカーサーの日本占領政策に対する迎合的ゼスチャーであったかも知れないしキリスト教会に関連を持つことが戦後の日本に生きるために利益となると判断した結果かも知れない。その真意は知る由もないけれども、この迷える羊達に本当の憩の場を与えることが出来ず、その空虚な魂の底にキリストの福音を浸透せしめ得なかったとしたら、これは教会の大きな失敗であり、キリストの委託に添うことの出来なかったものと率直に反省しなければならない。
 原町教会は幸にこの頃有能な助力者が与えられた。教会の集会、日曜学校、青年グループ等に指導的役割青果した岡田汐子女史の活動である。牧師不在の教会は同女史を中心に活発に動いた。更に同女史の夫君岡田静雄氏が牧師の働きを助けて教勢の挽回に当った。
 然るに戦時中大同団結して形成された日本基督教団所属の旧教派の中には、教団の中に留ることを潔としないで、再び旧教派に復帰する動きが現れて来た。そこには種々な理由があったと思はれるけれども基督教界にとって不幸な出来事であつたと思う。岡田氏夫妻も旧日本ホーリネス教会所属の教師であったため、教団を離脱して新たに結成された日本ホーリネス教団に参加することになり、原町教会所属の会員求道者十数名と共に原町教会を離脱して、原町ホーリネス教会を設立した。これは原町教会の歴史の中で二度目の分裂であって教会にとっては大きな痛みであった。
 そして教会は再び指導者を失い、月数回の中村牧師の出張、その他の応援によって集会を続けた。

 八、終戦后の教会
   (昭和二十三年以降)
 昭和二十三年(一九四八年)八月長く官界に在職した成瀬再び教会に復帰することを決意し、阿部喜一、折笠晴二郎、松永政隆氏等の招きにより再度原町教会に奉仕することと成った。成瀬は原町公民館創設の任を負いながら教会の再建に当り、昭和二十四年(一九四九年)四月教会総会に於て創立満五〇周年記念式をあげ、その記念事業として保育事業を開設することを決議し、町内有志の寄附金と教会員の献金約六萬円をもって最低の準備を整え、九月一日園児を募集し十月一日を期して六〇余名の園児を得て事業を開始し、名称を原町聖愛保育園と称し昭和二十四年十月一日附をもって福島県知事の認可を受け、ここに原町市最初の児童福祉施設が生れた訳である。このために教会一致してこのことに当つたが、阿部喜一、折笠晴二郎、松本政隆諸氏の尽力に負うところが多い。思えば大正六年室井良治牧師が幼稚園を開設して中断してから実に三十数年目に教会は幼児保育の事業を再開したことになる。当時は原町に幼児保育機関がなく町民は保育園の開設を心から歓迎した。然し当時保育事業についての理解が薄く、従来行はれた幼稚園の観念をもって有産階級の小学校入学準備機関と見る傾向が強く、その啓蒙に苦心した。
 翌二十五年(一九五〇年)五月の総会に於て会堂の破損と保育室拡張の必要が議せられ、教会堂増改築を万場一致をもって可決し、信徒一丸となってこのことに当り、一般募金十万円、教団援助金十五萬円計二十五萬円をもって増改築を行い従来の建坪約三〇坪を倍加することができた。同時に教勢も上昇し、礼拝出席四〇名を超える状況であったので、教団の法規に基き第一種教会として格付されることに成った。
 昭和二十七年(一九五一年)宗教法人法の制定によって、当教会も宗教法人の認証を受け、宗教法人日本基督教団原町教会として登録を了した。戦后の国民の興奮、動揺、虚脱の状態は次第に落着を取り戻し、再び物質文化謳歌の時代が到来して、教会ブームの風潮は全国的に退潮の傾向を示し、生産向上、経済立直り、自然科学の進歩は国民を再び唯物的に追いやると共に、自我中心的な主調が青年男女の心を捕え、教会は人々の興味から漸次離れるように成った。
 戦后の教会ブームは決して健全なものでなかったことが裏書されるに至ったが、教会にも人々の魂をキリストに結び付け得なかったことを大いに反省する必要があろう。然しその半面必然的に社会の問題に成って来たのは青少年の不良化の激化、道義観念の低下等々であって、国民精神の背景となる可き新しい精神力が切実に求められた。斯る時代に当ってキリスト教は宣教百年の年を迎え、教会は新たにその責任の重大さを反省しキリストの委託に添う自覚を新たにしたわけであるが、原町教会も昭和二十九年(一九五四年)十月教会創立満六〇周年を迎え、記念式典を挙げて教会の使命と責任を反省した。

 現在の教会

 昭和二十七年(一九五二年)以来相双地区の教会は次々と再興を計り、小高教会の再建、ラクーア伝道による鹿島栄光教会の設立となったが、更に我が教団以外にも、カトリック教会が進出して会堂を建設し、幼稚園を開設し、ノールウェー宣教師が伝道を開始して、原町福音教会を起した。然しキリスト教の信奉者がそれ丈け増加したわけではなく、他の新興宗教から見れば、その勢力は極めて微々たるものと言はねばならない。しかし宗教は一時的ブームではなくまた単なる運動でもない。一人一人の魂の深みに新しい生命が湧き起ることである。日本基督教団はキリスト教の前進のために、先づ従来の教会の姿勢を新たにするため「教会の体質改善」と「伝道圏構想」の二大方針を打ち立てることに成った。
 我々の相双地区にある五つの教団所属教会は何れも小教会で、地域社会に対する影響力も極めて小さいし、教会の孤立主義と宣教の独善主義に堕り易い今日の教会を、地域に奉仕する教会として、密接な協力と共働の必要性を重視し、相双地区合同教会の形成を計画し、着々その準備をすすめることに成った。
 昭和三十一年(一九五六年)には太平洋聖書学校と銘打って、新地海岸で夏期学校を開始して、年々これを続けて本年はその第九回目を実施した。主として聖書に立脚した信徒の信仰生活の研鑽と共同生活に於ける信仰者の霊的交りを主眼として行われて来た。更に昭和三十七年(一九六二年)には相双信徒会が結成されて、信徒の立場から合同教会の形成に参画することを申合せた。昭和三十年頃から三年間宣教師シユレーヤ氏夫妻が原町に在住してこの地方の伝道に協力したことは感謝の至りである。 相双地区の伝道は地理的にも原町市にその中心をおかねばならないと言うのが相双地区牧師会の意向であるので、昭和三十五年(一九六〇年)四月原町教会は定期総会に於て創立満六拾五周年を期して会堂の新築と保育園の園舎新築の実現を決議し、準備委員会を組織して、直ちに募金運動を開始したが少数の会員ではその実現が困難なので各方面の関係者に訴えて、募金運動を継続中である。教会創立六拾五周年の記念事業として実現に至らなかったのは誠に遺憾であるが、更に前進を期している。相双地区牧師会は更に教会の社会に対する奉仕の態勢を整え、この地方にキリスト教精神を浸透せしめるため、社会奉仕機関の設立の必要を痛感し、キリスト教主義による文化センターを原町に建設し、相双地区全体に正しい人間形成の拠点を設けることを計画している。
 更にキリスト教各派の教会が大同団結して地域住民に対しキリストの福音が理解されてその恵みに浴するように力強い働きかけをすることを切に願っておる次第である。
 今原町教会は六十五年の歴史を通して重大な時期に再会していると言わねばならない。
一、は時代に適した、教会堂の建築と児童福祉事業の整備である。
二、キリスト教の社会奉筆業として計画されている、キリスト教精神文化センターの建設である.
 この二つの大きな課題を抱いて原町教会は創立満六十周年を迎えたのであるが、今後は更に市民有志の賛同も得てこの幻の実現に活発な歩みを進めて行かねばならない。
   結  び
 原町教会の六十五年の歴史は、この地区の他教会即ち中村、小高、鹿島、浪江の各教会と離れて考えることはできない。従って原町教会の歴史は同時に相双地区の伝道史の一環してのみ成り立つと言える。
 この稿はその意味で極めて極限して原町教会を中心に綴られているので極めて不満足なものであるが、六十五周年記念として急速に纏めたものであることを御寛恕願いたい。近い将来統合的に相双地区の基督教伝道史をより詳細に物する時が来ることを期待して、この小史を関係諸兄姉に送る次第である。

 この稿は1964年に発行された。
 成瀬氏が「近い将来」と期待した「統合的な相双地区の基督教伝道史」は、成瀬氏が古い時代の原町地区の記憶に根ざした原稿を提供して古山金作牧師の手でまとめられた「相馬のキリスト教」(1978)が最も近いものだろう。
 成瀬氏はさらに75周年を記念して七十五周年略史(1974)を遺している。
日本基督教団原町教会はのちに85周年にも小冊子を発行している。

はらまちキリスト教100年史

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