原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

1の6 中学時代 

1の6 中学時代 
 終戦後国民学校3年生の2学期の時、国民学校から小学校に変わった。小学校卒業後クラス全員そのまま新制原町中学校へと進んだ。中学校の校舎は旧原町高等女学校の後であった。卒業するまで男女共学ではなかった。
 中学一年生の担任が国民学校当時二年、三年の時の担任だった代用教員の門馬道仲先生が福島大学を出てきて担任となった。教科ごとに先生がいるので張り合いが出て、一年生の一学期の成績はクラス七十人中二番になった。一番は原田 英(スグル)君で彼は東北大学に進み三菱商事に就職したが間もなく死亡している。
中学2年になるとクラス替えがあり新しい友達が出来た。その中でも特に仲の良かったのが井東 好太郎君だった。井東君のお父さんは原町紡績会社のトラックの運転士をしていた。井東君は兄弟が多く中学卒業と同時に集団就職列車で東京墨田区の鉄工所に就職した。集団就職列車の終着駅は上野だった。現在は明治製菓を定年退職して千葉県野田市に住んでいる。銀城 信史君はクラス替えになって一緒になったがすごく優秀でいつもトップだった。隣の手塚瓦屋の手塚光雄さんが樺太から母子3人を原町に連れて帰ってきて小学校の裏手の方に住んでいた。噂によると東大を受験したが四敗し、流しのピアニストをやっていたらしい。
社会科の鈴木先生の時間になると悪がきの佐藤孝二、松本正道、岡本安雄、などは後ろの方でベーゴマを始める始末だった。このように当時の同級生にはロクナヤツがいなかった。佐藤孝二は現在も服役中のはずだ。面白い話があって、小学校からの同級生に太田弘道というのがいて、小学校時代には番長を務めたり、中学校ではよくけんかするワルだったが、その後努力したのだろう、刑務官となり福島刑務所に何らかの役職に着いて着任したところ同級生の佐藤孝二が服役していた。一方は刑務官、一方は服役者と言う笑えぬ話しである。
 そんな中で水戸 童という日本画家がいる。日本画家の重鎮である。彼とは小学校から原校二年生まで同級であった。
 原町中学校の裏手の竹藪の中に朝鮮部落がありクラスの悪5人組はちょいちょい授業を抜け出して朝鮮部落でドブロクを飲んでいた。朝鮮部落に行くと密殺した豚肉や牛肉が安く手に入った。
 此のころになると、担ぎ屋といって東京にヤミ米を運ぶ人が大勢いた。駅で夜遅くまで並んで上野行きの切符を買うのを手伝うと駄賃がはいった。食管法というのがあって、時々警察部隊が一斉臨検で停車している車内に突入すると皆ヤミ米の荷物を置き去りにして逃げるのを見かけた。闇米を運ぶ人を闇屋と云って、この人たちは決まって原ノ町発夜十時の夜行列車で行くのだが乗車券を買うのには日中から窓口に並んで買わなければならないのでよく並んで買ってあげて駄賃を貰ったことがある。上野行きの夜行列車は超満員でお客さんは窓から出入りしていた。
 私の父は当時公務員の定年退職が五十五歳の時レッドパージで解雇されそうになった部下を助けるために機関区長にお願いして勇退といって五十四才で退職した。功績賞を受賞しているので退職しても日本全国国鉄有効の二等パスを貰っていたので父の知り合いの人の闇米を東京の秋葉原の由良旅館まで数回運んでやったことがある。
 そのような関係から相馬農業高校を卒業した次兄の昭夫は由良旅館に板前見習いとして就職することに成った。長くは続かづ三カ月ぐらいで飛び出しデパート関係専門の洋服のおろし問屋に就職したがそこもあまり長続きせず数か所を転々することになった。
 中学2年生の時、バレーボール部はそれまで女子部しかなかったので自分が率先して男子部を創設した。相双2郡で県大会の出場権を得て郡山市での県大会では「出ると負け」の状態で決して強くはなかったが、バレーボールには裸足で熱心に取り組んだ。
 発起人は広橋(東京大田区で歯医者)、伏見(東北大卒後サラリーマン平成23年74で死亡)、岡本(北大卒後医学部教授),濱須(新エネルギー研究所会長)、佐藤(農業)、遠藤(原町市役所を退職後悠々自適の生活を送っていたが2011.03、11の津波で行くい不明になった)達で、顧問は通称しゃもの遠藤先生だった。当時バレーボルは女性のスポーツと云われていた。原町紡績会社には女性のバレーボール部があり対戦したことがある。相馬郡で勝ち抜いて中村一中と共に郡山市での県大会に行った事がある、こてんぱたんに負けた。裸足で、土のコートで哀れなものだった。
中学3年生の時の修学旅行は部活をしている生徒だけ第一団として東京に行った。各自米五合持参で神田神保町の木造建築のギシギシきしむような旅館に男女運動選手60名が宿泊した。国会議事堂、靖国神社、上野動物園、宮城等が印象に残っている。寄付をもらおうとする白衣の傷痍軍人や靴磨きの少年などが上野公園あたりに大勢いた。
部活や雑用が多く、特に畑の手伝いで忙しい上に、秋になると、雪の多い東北の山沿いのため、ひと冬過ごす分の柴や薪を納屋いっぱいにしておかなければならず、二人の兄と一緒に上の山へ薪を取りに行った。当時はガス、水道はなく、竈、風呂、囲炉裏は柴や薪を焚き、井戸はポンプかつるべであった。毎日が重労働であったわけだ。
 中学生になると遊ぶ行動範囲が急にひろくなった。一歳年上の勝義兄といつも一緒だった、それに親友の井東好太郎、志賀幸一、二級上の宍戸竹重などが加わり、べーごま、釣り,キノコ狩り、栗拾い、水浴び、ピンポン、草野球などに夢中だった。
 魚釣りは愛宕神社の入れ口にある池で、胸までつかって、夜誘蛾灯の灯るそばで釣ると面白いように釣れた。これは盗み釣りだから捕まったら大変だがスリルがあって面白かった。一度だけ大人に追いかけられたことがあるが愛宕神社に逃げ切った。自由に釣れる場所は北原の遠藤避病院前にある大きな池、牛来の池、野々山瓦屋の粘土を採った後の池、北原の小川、大田村の牛側などで鮒、ウナギ、鯰、鯰などであった。
 小麦の収穫が終わるとパン屋で物々交換をしてパンを自転車に積んで周辺を売って歩いた。前に荷台のある自転車でパンを売っていたある日土道なので水溜りにハンドルを取られ、ひっくり返り溝に転んでしまい、パンは全部台無しになってしまい、パン売りを止めてしまった。
 又、田植えが終わるとそこにドジョウをとるための竹で編んだ仕掛け(ドジョウ胴)を夕方よその人の田んぼに勝義兄と2人で三十本ほどかけ朝早く揚げてくるとドジョウが一杯入っていて一部を自家用にして他を一合枡で町に売りに行った。よく売れ小遣銭になった。これは夏休みが終わるまで続いた。タニシやイナゴは戦後かなり長い期間貴重な蛋白源であった。
 小使い稼ぎはウサギ飼いにもあった。冬を越し雄を菅野さんから借りてきて交尾させると可愛い子供が生まれた。春先に兎の子は良く売れた。
中学の3年間は無遅刻無欠勤だったので皆勤賞をもらった。自分は総代として受賞した。560人中2割程度は無欠勤であった。

はらまちキリスト教100年史

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