原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

1の5 戦後の大混乱

1の5 戦後の大混乱
とにかく戦争が終わったのは私が小学校3年生のときだった。それまで国を挙げて「天皇のため、お国のため」などと軍国主義一辺倒で国民を押さえ込んできた絶対主義体制が一夜で瓦解した。いままで経験したこともない民主主義の世の中になったのだ。
戦前、学校に行くと校門をくぐったら一礼、しばらく歩いたところにある天皇皇后両陛下の写真と教育勅語が掲げてある奉安殿の前で最敬礼、二ノ宮金次郎銅像で礼、教室に入って礼、などと敬礼する場所やお辞儀する体の角度まで細かく決められていた。しかも教諭たちが離れた場所でいちいち監視していておろそかにした者はやり直しさせるなど厳しく指導していた。
 三年生の時門馬道仲先生から「野口英世」の歌を教わった。
  磐梯山の動かない 姿にも似たその心
  苦しい事が起こっても 貫き遂げた強い人

  波島遠いアフリカに 日本の誉輝かし   
  人の命を救おうと 自分の命を捨てた人

敗戦によりアメリカの占領下となり、民主主義体制が敷かれるとなると大混乱が始まった。まず、国民学校から小学校と変わった。名前は変わっても教える先生は相変わらずの復員してきた先生、代用教員、と軍国調の先生が多く,ちょっとしたことで体罰を加えた。次兄の担任の荒木先生は私の母が自宅に届けた蛸で腹痛を起こしたといって兄を生徒の前に呼び出しびんたをくらわした。鼓膜が破れ大変な目に会った。母は原町の学校から大甕村の学校に転校させた。
私の四年生から六年生までの担任は門馬光雄先生といった。皆良く殴られた。私など一日に一回平均は殴られていたと思う。学校へ行くことは地獄へいくよりひどいと思っていた時代だった。特に冬はつらかった。暖房は教室の前の方に木で作った箱型の火鉢が一つ、炭は配給。学校へは雪の中でも下駄かじんべ(米藁で作った長靴のようなもの)だった。下駄は雪が挟まりよく鼻緒が切れた。
敗戦でアメリカの占領下になり、民主主義体制がしかれるとなると大混乱がはじまった。戦前に受けていた教育の拒否から始まった。今までの軍国教科書は当然廃止となり、各ページを墨で塗りつぶすことになった。民主主義といっても誰も経験したことがなく、日本占領の責任者となったアメリカ軍マッカーサー元帥(連合国最高司令官)の指示の下政治、経済、社会全ての面で正に暗中模索であった。今まで天皇陛下のため命を捧げよ!などと謳っていた軍人たちは姿を消し、彼らに同調して威張りくさっていた教師たちは一夜にしてアメリカ迎合に態度を豹変させた。新しい教科書といっても新聞紙一ページ大に国語、算数、理科、社会の四科目が一緒に印刷されているもので、それを生徒が鋏で切って糸で綴じて使った。学校は空襲で破壊されて教室もなくなったので野外で勉強した。物不足で満足なノートもなかったが私の場合は父の仕事の本や帳面をばらして裏返しし何も書いてない裏の面をノート代わりにした。新憲法が発布されると「新憲法」という黄色い冊子が配られた。
 柔道、剣道など「道」のつく武術は非民主的として禁止になった。そのとばっちりを受けたのが書道だ。「道」がつくという只それだけの理由で書道も禁止となった。おかげで書道塾に通う比較的裕福な家庭の子供だけが書道を練習できた。
社会体制が激変しても教師の威厳は変わらなかった。先生はエライ人という先入観が残りそれをよいことに相変わらず威張りちらしたり暴力を振るう教師が少なくなかった。昔は現在と違って体罰はあたりまえの時代だった。何かにつけてビンタ(平手打ち)を喰らわす教師が多かった。私は学級委員や班長などをやることがあったので代表としてよく殴られた。
 米や塩など生活必需品はすべて配給制度が導入された。各家庭に米穀通帳とか配給券が配られ、そういう券がないと現金だけでは買えないしくみとなった。父はタバコを吸っていたが1と月10本の配給では話にならず柏やいたどりの葉を細かく刻んで薄紙で巻き代用タバコとした。一時期、東京から青森に向かうアメリカ軍の兵士たちが一等車(今で言うグリーン車)で通ったが、私は仲間の子供たちと一緒に毎朝登校前に駅へ行き、停車している列車の中の米兵に「ギブミー ギブミー」と叫んだ。すると米兵はチュウインガムやチョコレートなどを投げ落としてくれた。たまにタバコをくれることもあったが、それを父にやるとおいしそうに吸っていた。チーズやコーヒーは食べ方を知らず長兄にやると美味しそうに食べていた。仙台に通う二高生がプラットホームで米兵を外に誘い出しボクシングと空手の試合をやったりしていた。
 石鹸がなく,粘土に灰を混ぜて使っていたが垢は全く落ちず、シラミは増える一方であった。夏は先生が川原に連れて行き二列応対で回れ右し、着物を交換し、シラミを敵機に見立てて攻撃開始し、,取ったシラミの数を何十匹撃墜といった具合だった。
 戦後、もちろん酒などなく、爆破された工場からメチルアルコールを盗み出して来て水で薄めて飲んで盲目になった人が数人いた。又、苛性ソーダーを盗んできてシャンプー代わりにし髪を洗って禿げてしまった女性もいた。
 戦後はアメリカ兵が学校へジープでやってきて生徒全員を並ばせ、大きな自転車の空気入れのようなもので、DDT(殺虫剤)を頭のさきからお尻まで真っ白に成るほど吹きかけた。それも月に3回ぐらい、女生徒の頭は真っ白になり可哀そうなほどだった。
終戦間もない、小学校四年生、五年生のとき、勝義兄と友人の志賀幸一と三人で家から米を一升持ち出し、仙台行きの石炭列車に乗り仙台まで数回いったことがある。一番の難所はトンネルの中だった。蒸気機関車の煙と熱い蒸気で咽返った。仙台駅前は一面の焼け野原で闇市(やみいち)のバラックが一面に立ち並んでいた。そこに少しの米を持って行くとベーゴマやサッカリン、ポんせんべい等と交換してくれた。更に少し行ったところでは米軍海兵隊の行進を見ることができた。それまでの野暮ったい日本兵と違い、本当に格好良いのには仰天した。何とスマートなんだろうと。仙台が焼野原にされたので町の区画整理が整然となった。誰が信じるだろうか、あの焼野原が今の様な綺麗になるとは。
 戦後間もなく私の住んでした北原の益山長屋に住む草野さんの二十歳前の娘さんが緑や赤のドレスを着て時々田舎へ帰って来た。あの洟垂れ娘がと近所の人達はささやいていた。しばらく後に私が兄や兄の友達と仙台に行って見て知ることになったのだがパンパンガールと云った米兵相手の娼婦の事であった。後に所沢高校に転校してその多さにびっくりした。埼玉県の所沢、入間、狭山近くのジョンソン基地、立川、厚木のフィンカム基地の周辺には約7万人のパンパンがいたそうである。所沢高校時代その女性たちに再生したストッキングを売りに行ったことがある。所沢で日本軍の元将校が傷病兵として海外から帰還したのだがその奥さんがパンパンをしていた時代だった。後に資金を溜めて戦前やっていた呉服屋を再開した。
戦前、原町(現南相馬市原町区)には紡績工場があって落下傘など軍用品を製造していた。また近くには帝國金属という軍需工場があった。そういう関係から材料となる絹の布や硫酸、硝酸などの原料が駅の敷地に大量に山積みされていた。夜中に人目を盗んでリヤカーで物資を運び出し、闇市で処分して「にわか成金」になった人が結構いた。物資運びをしていたのは瓦工場、煉瓦工場などを経営している人たちだった。私の親たちはそういうやり方を知っていたが手を出さなかった。 
 子供の頃近所の瓦工場や煉瓦工場の中でかくれんぼ等の遊びをやっていると麻袋に入れた紙幣が五つ六つも屋根裏に隠してあったが、貨幣の切り替えがあり各家庭の所得によって印紙のようなものを渡され沢山紙幣を持っていた人は紙屑同然になった。
 酒も配給制度で不足し、田舎では家でドブロクを作り酒として間に合わせた。特に原町中学校の裏の朝鮮人部落では公然と密造していた。中学生たちも時々隠れて飲みにいっていた。法的には密造であったが社会規範が崩壊している状況ではオトガメナシである。駐在所の巡査までドブロクを分けてもらい貴重な「お酒」のご相伴にあずかった。私達兄弟も冬の寒い朝どぶろくをどんぶりで一杯飲んで勢いをつけて学校に行ったことがあった。その後中学校裏の朝鮮人は森の湯という旅館を開いて現在に至っているが1911年3月11日の震災後経営難に陥っている。
 私の小学校時代の夏休み、冬休みの過ごし方は低学年の時は良く北萱濱の父方祖母の実家の上原家や北原の高玉家に田植え、田の草取りなどに行ったり我が家の畑の草取り等、秋になると山から薪集めに母や兄達と出かけた。親戚での手伝いには白いご飯を腹一杯食べることが出来た。
その父方祖母の実家上原家は2011年3月11日の東北地方大地震と津波ですっかり波に飲み込まれ 同年8月に行って見ると家の土台石だけ残っていた。
 夕方6時頃になると「鐘の鳴る丘」というラジオ連続放送劇を聴くために飛んで家に帰った。「鐘の鳴る丘」はその当時の全国的な人気番組で子供たちにとって唯一の娯楽であった。

はらまちキリスト教100年史

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