原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

1の4 敗戦

1の4 敗戦
昭和十九年の四月ごろからアメリカ軍の空爆が激しくなった。戦略爆撃機B29が福島県郡山の工場地帯を爆撃した。またある日は仙台が空爆された。仙台には帝國陸軍第二師団が駐屯していた関係で重要な目標として狙われたのだと思うが、原町の上空を何百機というB29が通過し、仙台を焼夷弾で絨毯爆撃した。あちらこちらから同時に火の手が上がって住人は手の施しようがなかったところに別の編隊が爆弾を投下をして飛び去った。ある日の夜、その軍隊の火薬庫が直撃弾を受け爆発したときのことはいまだに忘れることができない。自分たちの場所から百キロ以上も離れているにもかかわらずその衝撃はすさまじく、まるで地震と雷が同時に来たみたいだった。子供心に「日本もこれまで」と思った。
母が近くに住み鉱山労働をしていた朝鮮人に優しくしてあげていたためか、ある日その人が我々のために岩山に防空壕の穴を掘ってくれた。そこに母屋から畳を運び入れ空爆など緊急のときの一時しのぎは可能になった。しかし食糧難は相変わらずで殆ど飲まず食わずの毎日だった。ひどいときには五日間まったく食べるものがないという状況であった。コメ(白米)なぞ何ヵ月もお目にかかったことがなく、良くて大豆をフライパンで煎って、それらを少しと、ありあわせの布きれで作った防空頭巾(ヘルメットの代用品)を持って学校へ行った、胸には名札を下げ、血液型はAと書いてあった。
 親や姉たちは軍の命令で飛行機の燃料にするのに必要だからと松の木の根っこ掘りに駆りだされていた。ガソリンは既に無く、松の木の根っこから油をとって「ショウコンユ(松根油)」と称し、それで燃料の代用とする計画だった。しかし終戦後その掘り出した松の根が長い間駅の近くの貨物列車用貯木場に山積みされ放置されていたことから察するに飛行機用の油はとれなかったのだろう。戦時中とはいえよくまあそんなコソクな手段を考え付くものだと感歎してしまう。
 昭和20年に近くなると昼はグラマンやP-51やロッキードP38といった艦載機が頻繁に空襲してくるようになった。裏山に登ると太平洋の水平線上にアメリカの軍艦が群れるように停泊している様子がはっきりと見てとれた。自宅の裏の方には熊谷航空隊の分所と原町紡績会社、帝国金属等があり小規模ながらも飛行場があった関係でその方への空襲が激しかった。請戸の海では漁船が艦砲射撃を受けた。
昭和20年8月8、9、10日の三日間、原町が空襲にあった。原町は仙台と平(タイラ)の丁度中間に位置することから鉄道の操車場があり軍用の機関車が五十両程も停車していたが全て米軍の爆撃で破壊された。私たちの小学校には陸軍高射砲隊が駐屯していたが逆に米軍から攻撃の目標にされ、そのあおりで校舎も爆撃された。
8月10日の夕方、生まれた家は爆風で半壊してしまい住めなくなったので一家で家を出て線路ずたいに桃内(現南相馬市小高区耳谷)へ向かった。父、母、次兄、次姉、三兄、猫、それに私であった。旧制相馬中学4年の長兄は勤労動員で横須賀の海軍工廠に行っており、また長姉は函館で眼科病院をしている伯父の所で働いていた。鉄道線路伝いに24、5キロみな懸命に歩いた。桃内は母方祖父母が明治維新後病院をしていた(今でもその屋敷跡とお墓があるが原発爆発の放射能漏洩の為近寄れない)ところであり、その親戚がいたのでその紹介で近所の農家で息子さんが鉄道員をしている田代さん宅に居候することにした。田の草取りや田車押しなどの手伝いをし、僅かばかりの食料を分けてもらった。農家といえども彼らも食料は十分ではなかった。その家には16、7歳くらいのちょっと頭がおかしい男がおり、なにかにつけて怒り叫ぶ始末であった。特に夕飯時になると我々に食べさせたくないとの意思が働くのか、決まって乱入してきて殴りかかったりお膳を蹴散らすなどの暴力をふるった。
8月15日正午、ラジオで重要な放送があるということで大人たちは座敷で正座し放送を待っていた。 天皇陛下によるいわゆる「玉音放送」でこのとき始めて公に日本の敗戦を宣言したのだ。大人たちがみな泣きじゃくっていたので何故泣いているのか判らなかったが次第に状況が理解できた。(ロシアは日露不可侵条約を結んでいるのにこれを一方的に破棄して日本に侵攻してきて北方4島を占領したり満州から60万の日本人を捕虜として連行した)
 その数ヵ月前のこと、母と次兄が電車を乗り継ぎ横須賀の長兄を訪ねて行ったところ土産の餅を置いてすぐ帰れと言う。アメリカはマッチ箱大でも町のひとつや二つ吹っ飛ぶほどの高性能爆弾を持っており日本は必ず負けると真剣な表情で語ったそうだ。おそらく原子爆弾のことを言ったのであろうが軍隊の筋から既に情報として掴んでいたらしい。
 敗戦を知って、両親はほっとしたようだったし、私達兄弟も早く北原の家に戻れるかと思うとほっとした気分だった。家に戻ってみると住めるような状態ではなかった。唐紙や障子はみな吹っ飛ばされ、屋根瓦も大分飛ばされていた。又、大黒柱には爆弾の破片や機銃の弾が沢山刺さっていた。食料は何一つなく両親はどんな風にして食料を調達してきたのかあまり記憶にない。大体家があっても眠れるようにするまでが大変。屋根瓦からの修理であった。食べられるものは何でも食べた。ウコギの葉、タニシ,どじょう、畑を耕すとき掘り残した芋、もうそれを掘り起こして食べて咎める人は誰もいなかった。兎に角畑には爆弾の破片や薬きょうが一杯ありそれらを掃除するのが大変だった。家中の畳は全部上の横穴防空壕に持っていて敷いてあったのが湿気で全部腐りかけていて全く使えなかった。

はらまちキリスト教100年史

お気軽にお問い合わせください。 TEL 024-546-9261 受付時間 9:00 - 18:00 (月・水・金曜日除く)

PAGETOP
Copyright © おはようドミンゴ・二上英朗 All Rights Reserved.