父・良夫男と母・ルイ

 もっとも、鈴木が故郷の小高区やに打ちに愛着がなかったというわけではない。戦前の共産党新派の時代に、鈴木は「小高良男」というペンネームで論説を幾編か発表している。「鈴木安蔵先生の略歴と著作目録」311・312p)。小高は故郷の地名であり、良男は、鈴木が誕生する直前に、20代の若さで夭折した父の本名である。
 良男は若くして小高銀行支配人代理となり、地域の産業文化に尽力する一方で、俳人としても活躍した人物である。
良男はは自らの早世を覚悟したかのように、余生という俳号を用いていた。正岡子規一門の人々と交流があり、川東碧梧桐がわざわざ良男を訪ねて来るほど、その俳人としての名声は全国にとどろいていた。

 また、鈴木は女手一つで自らをそだててくれた母ルイに対しても、一方ならぬ愛情を示している。鈴木は相馬中学校時代に、「高等学校をおえて大学高等文官試験官僚との道程を経」て、「学識を本格的決定的のものであった」と述べている。(「思想研究資料」160p)

 ルイは、鈴木が京都帝国大学2年生の時にた亡くなった。(「書簡集 人間にほふ」156p)。

 母の死は鈴木に不快悲しみを与えた。鈴木は父の影響からか、俳句ではないが、折に触れて短歌を詠んでいたが、その中には以下のとうな」亡母を悼んだものがある。

 その子ゆゑ二十一年堪へきしに子が業見ずにみまかりし母よ 鈴木安蔵 1942 300p
フクシマ・抵抗者たちの近現代史 柴田哲雄