原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

杉山元治郎と八沢浦干拓地伝道

二上英朗編著 小高教会ものがたり 前編
杉山元治郎と八沢浦干拓地伝道

郷土の先行者たち 第5回 山田貞策 出崎栄太郎
  太平洋と闘った八沢浦干拓 

◇名所だった藩政時代の八沢浦八景
 八沢浦はJR常磐線鹿島駅から東へ一里4キロばかりの所。昔は八沢村、日立木村、磯部村の3村5大字にまたがる約350町歩の広大な浦だった。
 南北1キロ、東は洋々たる太平洋に面して白砂青松の松林と砂浜が続き、波濤が運ぶ砂によって川口が閉じられ、西端には横手から発する矢ノ口川が注いでいた。
 相馬藩時代には塩田経営が行われ、日照りの時には「てっかり千表」といって、一日二千俵もの塩が採れた。
 八沢浦の北岸は断崖絶壁で岩の上に緑の松が生え、屏風岩とか額岩とか亀岩や大明神岩など、八沢浦八景と名付けられて名所であった。
 鷹ノ巣岩というところは、この崖から八沢の長者が突き落とされて相馬氏に滅ぼされたという伝説がある。

◇大食漢の仇名「八沢浦」
 八沢村の人々は、大食漢のことを「あいつは八沢浦だ」とあだ名をつけて呼ぶ。小川が流れ込んで、海へのはけ口がない、呑み込むばかりで吐き出すことを知らない、との洒落である。
 この浦を開拓して開田しようと試みた人はたくさんあったが、すべて失敗に終わった。
 数奇なめぐりあわせによって岐阜の豪農山田貞策と大阪の人で崎栄太郎が八沢浦の干拓に乗りだした時にも、村人たちは「またあの沼に銭を捨てに来た」と言ってみな笑い飛ばした。
 事実困難な干拓事業はそうやすやすとは完成しなかったのである。
 
◇ 技術界のパイオニア
土木を専攻する人は、日本の土木の歴史のパイオニアのなかに出崎式排水機の発明者出崎栄太郎の名前を見つけるだろう。
 出崎は安政六年、和泉の国南郡の岸和田に生まれた。現在の大阪府泉南郡。
 小さい頃から機械に興味を持ち、大工であったが、博覧会で見た英国製の紡績機械を大福帳にスケッチするや、たちまち自分の手で紡績機械を作ってしまうほどの器用さと、抜群のアイデアの持ち主であった。
 明治十二年、出崎栄太郎は日本で初めての紡績機械を作ったのである。時に二十一歳であった。
 明治二十五年、出崎は岐阜の山田貞策という男から一通の手紙を受取った。これが出崎と山田の最初の出会いであった。山田貞策は地元の農業の若ての指導者で、この時二十五歳である。
 山田は出崎に、木曾の輪中地方の改良について一つの事業を誘いかけたのであった。すなわち毎年輪中地方を襲う洪水の災禍から百姓たちを救うために、出崎栄太郎の技術を以て排水機を完成させるという計画である。これは十三年の歳月をかけて明治三十八年、ついに「出崎式排水機」の完成をみた。
 八沢浦干拓に着目したのは佐納栄三郎という岐阜の鉱山技師であった。佐納は炭田調査のために上真野村を訪れたのだったが、たまたま鹿島町中村屋旅館の番頭に誘われて見物に行った八沢浦で、すぐに干拓事業という可能性のとりこになってしまった。佐納の紹介によってこの地を知った山田貞策は「出崎式排水機をもってすれば感嘆」と出崎栄太郎親子を事業に誘ったのだが、排水のための工事は何十をきわめ、太平洋という怒涛の大自然と闘うことになる。
 山田は多額の金をつぎこみ出崎の新型排水機は四万円かけて発注して作らせた特別製のものであったが動かず大変落胆し、山田は事業の中止を考え、出崎は残念の気持ちを抱いたまま病床に倒れ込む。
 明治四十年十二月九日の着工から三年、明治四十三年八月八日、出崎栄太郎は干拓の成功を見る事なく肺患のため開拓地に没した。

小高教会ものがたり 6.10講演より

 杉山元治郎は出崎栄太郎と同郷の大阪府泉郡北中通村(現泉佐野市)下瓦屋という大阪湾に沿うた半農半漁の一寒村の出身で、明治18年11月18日生まれ、大阪府立農学校を卒業し、和歌山県農業技手となったが、明治36年中にクリスチャンとして洗礼を受けた。
 41年前の昭和51(1976)年・相双新報という地域新聞に書いた私の記事です。
 出崎栄太郎とは、鹿島町の八沢浦を干拓した人物で、その人物伝を「郷土の戦功者たち」という連載記事で書いた、その続きとして小高の杉山元治郎牧師を書いたのです。
 原町の「無線塔ものがたり」というデビュー作を書いた次のシリーズ作品でした。
 神様が引き寄せて同郷の二人を異郷で新しい関係で組み合わせ、新しい役割を果たさせる物語が、百年前の鹿島と小高を含む南相馬で起きた。これは不思議なことで、わたしには神秘です。
 その同じ百年前に、相馬の中学生になった小高生まれの少年が、福島で行われた少年弁論大会で颯爽と彗星のようにデビューします。鈴木安蔵氏です。この人はクリスチャンの両親のもとに明治37年3月3日に生まれ、しかしその直前の2月12日に父親が若くして亡くなり、母と姉に愛されて育ち、学問に秀でた知恵と義侠心にみちた少年になりました。
 やがて日本で憲法を科学として初めて学問にして、それ故に時の軍国主義政府から弾圧され投獄され、悪名高い治安維持法の成立で、名誉ある第一号の逮捕者になった。世間的には不名誉の極みとして指弾されいわれなき苦しみを受けました。言論を封じられ職を奪われ身体的精神的に拘束を受けて耐え忍びました。そしてついに敗戦によって解放されて、栄誉ある勝利を獲得します。
 日本国憲法の設計図を民間憲法研究会の中心で草稿を書きあげ、これがほとんど完璧だと評価されてGHQと日本政府が書きあげて布告。施行されて70年の記念すべき憲法記念日が、さる5月3日に迎えられ、われわれ有志が友人の栗村文夫ご夫妻の発意と主導で浮舟文化会館で「日本の青空」上映会をいたしました。170人が集まりました。
 ほんじつは、その憲法の70年の誕生の記念祝賀でありますとともに、先週の日曜のキリスト教会の誕生日であるペンテコステを祝うためでもあります。
 ペンテコステ(ラテン語: Pentecostes)は、聖霊降臨(せいれいこうりん)と呼ばれる新約聖書にあるエピソードの1つ。 イエスの復活・昇天後、集まって祈っていた120人の信徒たちの上に、神からの聖霊が降ったという出来事のこと、およびその出来事を記念するキリスト教の祝祭日。
 詳しく知りたい方は、お近くの教会で牧師さんにお聞きになるのが一番早いです。シャイな方でしたら、新約聖書の「使徒行伝」という章を読むと、くわしく実況が書いてあります。面白いですから、ぜひお読みください。
 さて、もうひとつは6月10日は、原町教会の誕生日でもあります。明治33(1900)年のことです。当時は原町耶蘇教講義所といいました。太政官政府の規定によって県知事に届けを出しました。許可なく集会や言論が認められない時代でした。
 ほんじつはこの3つをお祝いで企画し、帰還者同胞の元気回復を願って語ります。

小高教会と杉山元治郎の農村伝道
 明治四十三年(一九一〇)五月、健康のため一時郷里大阪府佐野町で静養していた杉山元治郎牧師が小高講義所(以後小高教会と称する)に着任した。杉山牧師は当時無牧となった原町に出張すると共に、大瓶、幾世橋、金房、大田和等に集会を持ち、当時では稀しいオートバイを走らせて活溌に活動した。殊に近隣の農民に福音を伝えると共に、専門が農業技術で元大阪府技手であつた経験を生かして農業の技術指導にも当り、鹿島の八沢浦干拓事業に助言者として活躍し、八沢村に日曜学校を設け、伝道集会を開いて精神面の指導に当ったことは有名である。杉山牧師の自叙伝から小高教会着任当時の状況を抜粋して当時を偲びたい。
 「半年あまりそうした療養生活をしているうちに、ほとんど全快した。それで気候のよい郷里地方で伝道の手伝いをするつもりでいたところ、シュネーダー博士から、もう一度東北地方に戻つて来いとの懇望が強い。永い間恩義を受け、病気の間も蔭になり日向になって助けてくれた先生のいうことであるから、東北に行くが、一番温い土地であること、病気のことであるから、半伝道、半療養の出来るところであれば行くと返事した。すると一番温いところは、磐城の平であるが平教会は一寸面倒で、病後の人にはむずかしい。しかし小高なら温いし、信者も数人で適しているから行けと任命が来た。それで明治四十三年七月単身小高に赴いた。
 駅前に運送店と宿屋があるが、その二丁ほどの両側には何もない。一本町で中央に溝が流れ、両側は半農半商の町で静かである。有名な俳人大曲駒村の夫人の姉にあたる人が信者で未亡人であり、元宿屋をしていたというので、そこに下宿し、その家を教会の集会にも使つていた。数人の集りであるから至極閑散で、療養伝道にはもつて来いのところである。
 少ない信者の中に隣村金房村の奥に住んでいた太田氏がいた。退屈凌ぎに散歩がてら、一ケ月に一度くらい訪問した。その途中、飯崎原というところを通るが、一面の萱野である。聞けば二宮尊徳翁が室原川から水を引き水田にしようとしたところで、表土は一寸赤粘土に見えるが、下は砂礫で、水は浸透して抜けてしまい、しかも南側の籔屋の密集している部落に抜けとうしになりたら問題が起り、さすがの二宮翁もサジを投げたという原である。秋から冬にかけて萱を苅っているとき、百姓達に「一反歩苅り取って何程の金になるか」と聞けば「五円内外になる」とのことである。それで一歩を進めて「もっと金の取れる作物はないか」と聞けば「二宮さんさえ投げた処だから駄目だ」といって問題にしない。飯崎原を通るたびに数度同じことを繰返したがそれ以上発展しない。幸い私の下宿している隣家が飯崎原に二反歩程の萱野を持っている。それで女主人に一反歩に払うから貸してくれ、私はあそこに葡萄、桃、梨などを作ってみる、うまく出来たら皆貴方にあげるというて借り受け、果樹類を栽培したところ、私の予想より生育した。これを見た、今度来た牧師は、百姓の先生らしいということになり、ある日私の家を尋ねて来た人があった。初めはなかなか口をわらなかったが、ようやくいったことは「耶蘇の話は抜きとして農業の話だけに来てくれ」とのことである。それで私は快諾してその村に出かけた。
 百姓達はよろこんで聞き、県庁から技師や偉い先生に来て貰わなくてもよい。杉山先生なら気楽に来てくれ、しかも判り易く話してくれると評判になり、それからはあの村、この村と無給巡回教師のように走り廻った。百姓達も私が基督教の牧師であることを知っているので同じ村に数回行くと「たまに耶蘇教の話をして下さい」と切り出して来る。そこで初から聞かないつもりで、心の門を閉じている人に話してもしようがない、が、お世辞にも聞こうと心の戸を開きかけてくれば大いに話そうと話したので、農村伝道の糸口もでき、小高教会建設の際はこうした村々から青年達が集って、土台固めのどうつきをしてくれ、教会の色々な集会にも出席するようになった。(「土地と自由のため」の「小高教会時代」の項から)
 明治四十四、五年中にも多くの伝道者、名士が小高を訪れたが、杉山牧師の知友である沖野岩三郎、加藤一夫、山野虎市諸氏の来訪があり、斉藤壬生雄牧師、伊藤広吉氏等の特別集会や日曜学校大会を開き多くの学童、青年を集めてキリスト伝や天路歴程の影絵講話等が行われた。明治四十五年(一九二一)末の教勢報告を見ると会員数は三十六名でその内他出身会員が十八名あり、若い人々の流出が目立って来る。礼拝出席、祈祷会出席は共に一〇名内外、婦人会一〇名、日曜学校出席三十五名と教勢は 低潤であった。
 茲で特筆しなければならないのは、教会の財的自立と言うことである。日本の伝道は日本人の手でと言われているが実情は日本の教会殊に東北の教会は経済的に自立出来るものは僅少で大部分は伝道局(米国ミッションとの協力による)の援助によって支えられていた。杉山牧師は自給独立の教会を目指して従来の伝道局の援助を打ち切り、自立して独自の伝道活動を敢行した。それは当然牧師の生活に影響することで、杉山牧師は自ら生活のためにも苦闘しなければならなかった。
 大正二年(一九二二)十二月を期して自給独立に踏み切つた杉山牧師はその日から、あらゆる方途をとって生活と戦い乍ら伝道活動をつづけた。
 それはやがて無産政党の闘士としての尊い体験であつた。
 杉山牧師は郷里から両親を招いて自ら耕地を指導し、農村に養鶏を奨励し、部落の要請に応じて農業技術の講習を実施し、更に農民福音学校を開設して物心両面の指導に当った。そのためには会堂及び教室の建物が必要であった。
 氏は当時のクリスチャン財閥であった森村市左衛門氏を説得して資金の応援を得、地元の協力を得て現在の教会所在の場所に土地を入手して、総建坪約四〇坪の二階建会堂を建築し、階上を教会堂に階下を牧師住宅兼農民福音学校教室として愈々本格的に活動を始めることになった。更に小高町に歯科医が皆無であるのを見て、友人藤田医師を招き、藤田歯科医院を開設することに成功した。杉山牧師は余暇を見て藤田医師から歯科医療の指導を受け、やがてこれが杉山氏の杉山歯科医院開業となり政治活動の足場となったことを思うと杉山牧師の活眼は偉大であると言わねばならない。またこの時期に基督者医師山田弘氏が医院を開業して小高の医師界は教会の大きな支えとなった。(以上、相馬市史より)

沖野岩三郎がみた八澤浦干拓地
 杉山の伝道は、浪江、八澤干拓地、川俣などにも大きな足跡を残している。
杉山の古くからの友人でクリスチャン作家の沖野岩三郎は、大正4年に八沢干拓地を訪問している。杉山が農産物の品評会の審査員をしていた現地を訪問したのだ。
 のちの昭和17年に、沖野は「八澤浦物語」を出版しているが、その一節に若き日の杉山の姿が生き生きと描かれている。干拓事業の責任者山田貞策が、明治43年に杉山と出会った場面は山田からの聞き書きだろうが、その後の大正4年の品評会の様子は沖野自身の記憶によるものだ。
 八澤干拓地での伝道の端緒となった経緯と、当時の干拓地の様子を「物語」から引用する。

 山田さんがこの事業に第二の出発をしました時、禁酒禁煙を海老名弾正、小林富次郎、鈴木文治、服部正夫の四人にちかひました。それ以来毎日曜には八澤浦付近の町に出て精神修養の話をきくことにしましたが、お宮にもお寺にも修養講話はありません。だから中村町、小高町、原の町などに出かけて、必ず精神講話のある教会をたづねました。
ある日曜日に相馬郡の小高町に行って、停車場近くで、このへんに教会がありませんかと聞いてみますと、一町ばかり行った所に教会があることを教へてくれました。
 で、山田さんは教えられた所をたづねましたが、教会らしい建物はありません。二度も三度も同じ町内を行ったり来たりしましたが、たづねあたらないので、また元の家に行って聞いてみますと、あの焼芋屋が教会ですよと言ひました。
 へんだなあと思いながら焼芋屋の表から中をのぞきますと、一人の若い紳士が洋服を着て話しています。
山田さんは座敷に上りました。そして十人ばかりの聴衆のうしろにすわって、だまって話をききました。
 説教の終わったあとで、山田さんは名刺を出して初対面のあいさつをしました。紳士はそこの教会の牧師杉山元治郎さんでした。
 杉山さんは、出先さんや左納さんの生まれた和泉の國、岸和田の隣町の佐野の生まれて大阪府立天王寺農学校を卒業した人です。農学校を出てから、和歌山県の農会技手になっていましたが、明治三十七年に役人をやめて仙台の東北学院に入学したのでした。
 それは牧師になって、東北六県下の農民伝道をしたいと思ったのです。
 いよいよ東北学院を卒業しましたので、東北六県下を津津浦浦、町町村村を四回まで巡回しました。そして東北地方の農民が、どれほどの知識と教養をもっているかといふことを知りましたので、小高町の日本基督教会に落ち着いて、そこで農民伝道をすることになったのです。
 杉山さんは両親と弟と妹との、六人家内です。それに小高教会の会員は、ごく少ないので月月の月給は一円五十銭しか出せないのです。六人家内に一円五十銭の月給ですから、一人分一箇月金二十五銭にしか当りません。これでは生活ができません。アメリカの宣教師から、毎月五六十円の補助をしてあげようかと申し込んできましたが、杉山さんは、きっぱりそれをことわって、自給の方法を講じました。つまり背水の陣を張ったのです。
 呉服屋をしていた家が空屋になったので、杉山さんはそれを借り受けました。家の表には、農作物種物取次販売、農具一式取次販売、多木製肥料取次販売、売薬製造販売、屋根瓦製造販売、相馬焼陶磁器取次販売、燻炭製造販売、杉山式互鋤すき販売、杉山式自動車修繕器販売、と、いふやうな看板をずらりとかけたまんなかに、日本基督小高教会の看板が雑居しています。おまけに入口には焼芋かまをすえつけてあって、そこでぽかぽかあたたかい焼芋を売っています。焼芋を売るのは杉山牧師夫人なのです。
 このありさまを見た山田さんは、すっかり感心してしまひました。そこで八澤浦干拓の話をしますと、杉山さんは、
 「では、私が毎週一二回出張して、農業の方を指導してあげます。あなたは田をこしらへなさい。私はその田からどうすれば米が一俵でも多くできるか、といふ事を教へてあげます。」と、申しました。山田さんは深山の人で人の足音を聞いたやうに、うれしく思ひました。
 八澤浦へ帰った山田さんが、このことを猪之助さんに話しますと、翌日猪之助さんは小高の待ちへとんで行って、杉山さんを八澤浦へつれて来ました。そこで杉山さんはこの八澤浦干拓会社の顧問役となって、実地に農業の指導をしながら、一週間に一度づつ精神修養講話をすることになりました。(今杉山さんは大阪府選出の代議士です。)
 私がその杉山さんに頼まれて、八澤浦へ講演に行った時のことを少しく話しませう。その頃杉山さんは小高町の教会内に、農民高等学校といふ学校を開いていました。学校とはいふものの普通の学校とはちがふのです。入学期は冬の雪のふりはじめる十二月で、それから、雪のとける春の四月までの五箇月間で、教授時間は毎晩夕方から十一時ころまでです。教科書といふものをつかはないで、火鉢をかこんで、いろんな話をしながら知らず知らずのうちに、農業に関する知識を授けるのです。月謝は五十銭ですがそれはお金でなくともよいので、お米でも大根でもよいのです。話は主として、日本に昔から伝はっている神話や伝説です。それを深く頭に入れないで、いきなり西洋の話を聞いて、アンダアセンがどうの、グリムがどうのと言ふやうではほんたうの日本精神がわからないといふのです。
私はそこで一晩そこで話しました。それからその翌日、杉山さんにつれられて八澤浦に行きました。そして干拓地を一通り見ました。その時私の驚いたのは、広い田圃のまんなかに、大きな貯水池のあったことです。池といへばせいぜい一段歩ぐらいのものだと思っていた私は、その池の広さを見て、「どのくらいの広さですか。」ときいてみますと。「四十町歩です。」と、杉山さんは答へました。
四十町歩といへば十二万坪ではありませんか。
「何とひろいもんですなあ、これをどうするんですか。」と、きいてみました。杉山さんは笑ひながら、
「うなぎを飼ふんです」と、答へました。
「うなぎを飼ふ餌は何ですか」
「蚕のさなぎです」
「さなぎで飼ったうなぎは、うなぎくさくはありませんか」
「ここでうなぎを飼うまでは気づかなかったのですが、近頃うなぎ屋で食べるうなぎに、時時うなぎくさいのにぶつかります。やっぱり川でそだったのは、さなぎくさくありません」
「では、純粋の川そだちのうなぎが上等で、池でさなぎを食って育ったのが下等といふことになりますか」
「さうですなあ」
「では、ここへ下等うなぎ飼養所といふ立札をしてはどうです」
私がそんな事を言ったので、杉山さんとそのそばにいた猪之助さんとは、腹をかかへて笑ひました。
 それから私たち三人は、その池の浮かんでいた舟にのって貯水池を横ぎりました。舟には小さい旗が立っていて、その旗には「福音丸」と、書いてありました。岸の向ふには、長さ三百メートルほどの石垣の堤防がありました。堤防のはしに記念碑が立っています。それはこの八澤浦に移住した小作人八十戸の人たちが、山田さんに対する報恩の意味で、みんな手手に浜から運んで来た石を築いた堤防だったのです。
 その晩私は、事務所のそばにある集会所へ行きました。二百人ばかりの男女が、ぎっしり集会所にすわっていました。きけばこの人たちは朝からここに集って、地主から配られた折詰に舌づつみを打って、相撲を取ったり盆踊りをしたりして、楽しく遊び暮らしたといふ話でした。秋の収穫が移って、今晩はその品評会があるのです。
 集った男も女も、みんなあか黒く日にやけた農民のたくまし姿ばかりでした。いよいよ品評会がはじまりますと、最初に杉山さんが宗教の話をしました。その次に山田さんが訓示を読みました。それは、今年は小作人一同が忠実に働いたから収穫も多かったが、どうぞ来年も今年のやうによく働いてほしいといふのでした。それから杉山さんが主任となって、小作人の作った米を一等から六等までによりわけて、それを一一批評しました。
「甲の作った米は粒が大きい。けれども重量が足りない。これは肥料のやり方が悪いからである。乙の作った米は粒が小さい。けれども重量が多い。これは肥料のやり方がよかったからであるが、今少し粒を大きくする方法を考えなければなりません。それは肥料の質をかへればよいのです」
 そんな批評をして一等から六等までの等級をきめますと、今度は山田さんが起って賞品を授与しました。その賞品は大きな鍋があったり茶碗があったり、洗面器があったり、みんな農家の実用品ばかりでした。
 賞品授与式のあとで、県農会の役人と郡農会の役員が一場の話をしました。賞品をもらった小作人の一人が、とても上手に謝辞をのべました。そのあとで、私に話をせよと山田さんから頼まれましたので、私は
「童話でもよければ話します」と、言いました。童話ときいて、たくましい男も女も、みんな大喜びでさかんに手をたたきました。そこで私は私の作った童話「やんばうさん」を、話しますと、話が終った時、「もう一つ、もう一つ」と、さけんで私を演壇からおろしてくれませんでした。で、しかたなしに短い話をもう一つ話したのでした。
 私は何百回か童話講演をいたしましたが、この時ほど愉快な講演をしたことはありませんでした。

 成瀬稿によると、杉山牧師が原町教会を援助したのは大正2年から、としている。
小高を大正9年に去ったのち杉山は大阪に移り、賀川豊彦を訪ね、大正11年には二人が中心となって神戸市で日本農民組合(日農)を創立させ初代の組合長となった。
昭和7年に全国労農大衆党から初当選し代議士として活躍。戦時中は大政翼賛会議員であったため昭和23年から26年まで公職追放の該当者となったが、26年の総選挙で代議士に復帰。日本社会党代議士会長、農村議員団長に選ばれた。昭和30年衆議院副議長。38年には永年勤続議員として表彰。39年に脳出血のため死去した。

杉山元治郎と八沢浦干拓地の伝道

小作問題への関心
 大正六年四月のこと、警察が英語を教えてくれとか、何とかいいながら毎日訪ねてくるようになった。変わった事件でもあるのかと思っていたところ、沖野岩三郎氏からはがきが来た。今度教会の浪花中会が金沢市にあるので今朝日新聞募集の懸賞小説の原稿を投じ、金沢市に行くが、その足で宮城県塩釜港の植松材木店に寄り、帰りに貴兄のところに寄るかも知れぬと、それで警官の来訪がわかった。
 (杉山元治郎自伝「土地と自由」p47)

 沖野氏は幸徳秋水等のいわゆる大逆事件には関係はなかったが、教会員の中には大石緑亭氏の如きその他被疑者がいる。沖野氏は大要視察人と考えていた。
 それで沖野氏旅行の報が伝わると、行き先き先きに名刹が廻り、水ももらさぬ警戒が行われた。はがきが着いてから、また例の警官がきたので、私の方から「沖野氏が来るというので警戒しているのだろう、来たら知らして君達の心配にならぬようにしてあげるから、毎日の訪問はよしてくれ給へ」というと頭をかいて恐縮している。それから暫くして仙台塩竈から〇日〇時の汽車で行くと通知がきた。しかしその日時は八沢浦干拓地の集会に行く時間なので、鹿島駅まで私は行って沖野氏の汽車を待ち合わせ、ホームから沖野氏に「ここで下車するのだ」と叫んで引き降ろした。そうすると尾行君もついて来て、私は小高駅までついてゆく命令は受けたが、こんなところで降りるとは聞いて来なかったと不服をいうので、君は尾行ではないか、沖野氏の後についてくればいいのだと一喝した。「上司の許可を得たいから暫くお待ち下さい」というので、我々は駅長室で一休みして四方山話をしていた。
 鹿島町の巡査駐在所に行ったが、奥さんがお産でそんなことにかかわっておられぬといい、中村の本署に電話したところ、土曜日でもう署長が不在とのこと、やむなく尾行君は不承不承我々の行くところまでついて来なければならぬことになった。戦々恐々としていて、事務所で沖野氏の隣りの室に泊めてやるというと、社会主義者のためにどんなことをされるのかと一層心配そうなのである。ともかく鹿島駅から事務所のある海老江まで約一里の道を歩いて夕方到着した。
 海岸一帯は大きな松林、その一角の小高い山に事務所が建っている。舌下を見おろせば湖面と干拓された土地が見えまことに絶景である。今でこそこのように立派に完成しているが、干拓の当初はうまく水が抜けず、失敗に瀕したとき、事業主が杉山のところに相談に来たのである。それ以来杉山は毎土曜日ここに来て、農業上や移住民等の相談に応ずるほか、日曜日の礼拝を倉庫の二階の礼拝堂で持ったのである。そのための二十人あまりの信者が出来、シュネーダー博士より受洗したことは特筆すべきことで、沖野氏はこれらのことを「八沢浦物語」という一冊にまとめている。
 
 だんだん干拓地が成功し、肥料がなくて収穫が普通田よりも多くとれると、事業主は地主根性を出し、搾取誅求をはじめた。それで私は農業上の相談もよい、人心開発のための伝道もよい、しかし昔から一将栄、万骨枯るの諺の通り、一地主が栄え、多く野小作人が苦難するのではいけない、多くの農民が繁栄し、喜ぶような解放運動が必要であると考えているとき、賀川豊彦氏が神戸で川崎造船所の争議を指導している新聞記事が出たので自分も賀川氏に相談する気持ちが起って来たのである。
 (以上、杉山自伝「土地と自由のため」より)
 それで大正九年十月、十一年間住みなれた小高をあとに……。

八沢浦干拓事業主 山田貞策が求めた宗教的信念
 山田の弟服部正夫は、挫折している兄の姿を見て、この事業に宗教的な信念の必要を感じて、教会の門を叩くことを兄に勧めた。貞策は弟の勧めに従い、酒もたばこも断って事業に専念。ある日説教を聞こうと、教会を探しに近くの小高の町を訪れた。
 山田貞策はここで、のちに堅い友情を結ぶことになる青年牧師杉山元治郎に出会うのである。杉山の存在は、干拓事業の精神的な支えとなり、技術的な指導は父の遺志を継いだ出崎猪之介がすべてを取り仕切って率いた。
 猪之助の意見によって、排水機による排水を諦め、湖面の海面より高いのを利用して岩盤隧道から排水する考えに突き当たり、以前に沿岸住民が一致協力して明治九年浦口北方海岸に突起している砂岸層の山麓に隧道を掘ったものがあって、幅六尺(1.8メートル)高さ五尺(1.5メートル)の、この古い隧道の砂を浚ってゆくと、湖水が海へ流れ落ちない工事ミスを発見した。
 地域住民による開削トンネルは、もう少しで干拓に成功する手前寸前だったのである。つまり両方の口の高さだけが測量図通りで、トンネル中央が高くなっていたのだ。そこでトンネル中央部分を削って平坦にすると、はたして八沢浦の水面は動き始め、一夜のうちに三百五十町歩の沃田が忽然として眼下に現出したのである。
 
12名の犠牲者だし ようやく完成
 杉山牧師は農学士でもあり、その後入植者たちの農業指導にあたり、夜は説教して精神的な訓話をほどこした。素朴な入植者たちは等しく貧しく平等であり、一種の原始キリスト教的雰囲気の中にあった。
 開田の時に、杉山は恩師であるシュネーダー博士を八沢浦干拓地に詠んだ。博士はこの地に祝福を与え、こう言った。
「ここはモーセが海を取り除いたように神が作って下さった土地です。これこそは奇跡でなくて何でしょう」
 野良着で大男の入植者たちは、敬虔に聞き入り、ひとしおの感動を味わった。
 明治44年、耕地整理共同施行を申請して、同年12月28日許可された。
 出崎猪之介は、同じ年相馬の新沼浦六百町歩の干拓事業のため八沢浦を去った。彼にとって生きる場所は、つねに技術の世界であったから、一つの事業の成功は止まることはなかった。
 猪之介の娘にあたる武口周子さん(相馬市在住)は次のように語る。
 「父は晩年、朝鮮へ渡って干拓事業をする夢をもっていたようでした」
 ひっきょうエンジニアの典型的な生涯を見る思いがする。
 干拓事業成功の後は、山田貞策の娘婿山田茂治が高知整理事業の任に当たった。山田貞策はその後郷里の岐阜へ戻って村会議員と県会議員をつとめた。
 山田貞策の一生の大事業は、このようにして福島県相馬郡鹿島町の八沢浦に残された。出崎栄太郎も山田貞策も相馬の人間ではなかったが、相馬にとっては忘れてはならない人物だろう。そんな意味をこめて、郷土の先行者たちのなかに列せられるべきである。
 その後年々改良を加えられ、八沢浦干拓地は順調に発展したが、不幸にも海底トンネルを掘ったサイフォン式海中排水口から海水が侵入し、大正15年1月、宇都宮清三郎(当時39歳)、佐藤一郎(同22歳)、前川長命(36)の3名が殉難。
 昭和2年7月31日、土用丑の日に、再び砂詰まりを取り除こうとして事故が起こり、人夫8名が死亡。
 上谷地武(38)、宇都宮栄一(27)、小泉亀松(23)、相良亀次郎(37)、大久保幸記(24)、荒運記(25)、今野善助(43)、渡部冬治(38)らである。
 八沢浦干拓機械場にある山田神社の傍社が、彼等犠牲者をまつっている慰霊殿である。
 北海老の小高い丘の上に太平洋を見おろしながら干拓の記念碑は、一つの歴史を秘めながら建っている。
「相双新報」郷土の先行者たち 昭和51年)

小高時代
 彼は小高教会のほか、大甕村、幾世橋村、鹿島町、八沢浦干拓地に、毎月定日に出張伝道し、小高町でも大和田、女場、吉名の各部落を巡回して説教した。またある年には毎週二回小高町の街頭で一般町民にむかって路傍伝道した。そのうちで彼が自ら開拓し、もっとも効果をあげたのは、八沢浦の布教であろう。干拓成功とともに入植した農民を相手に、毎月二日、十六日の二回出張して伝道したが、大正三年シュネーダーを招いて三十三名に洗礼をほどこし、また会堂を建設して中会加入の講義所にするなどの実績をあげた。
 彼の小高における不況の特徴は、何といっても、農村青年を相手に農民高等学校を起して、後年の彼自身のキリスト教布教の中心をなした農村伝道の出発点をつくったことにあった。
 彼が農民高等学校をはじめた動機が、当時の福島県原ノ町農学校の伊藤校長にすすめられて手にしたホルマン著「国民高等学校と農民文明」の訳書を読んだことにあったことは、自叙伝にのべている通りである。彼がそれを読んでグルンドヴィヒやクリスチャン・コルの精神にふれ「神を愛し、隣人を愛し、土を愛する精神をもって死を征服する奉仕者をつくる」ことをよみとり、感激の幾夜を送ったことは創造にかたくない。そして感動した心を直ちに実践するべき立上ったのであった。まず数よりも質、形よりも精神の尊重すべきことを考え、日本古来の寺子屋を現代に復活して、人格と人格とをぶっつけあう教育を夢にえがいた。そして吉田松陰の松下村塾や広瀬淡窓の咸宣園の教育におのずから思いをめぐらした。

小高の農民高等学校
 杉山は「国民高等学校」の名称の代りに「農民高等学校」と名づけ、大正二年二月をもって開講した。
 第一年は付近の農村青年八名と宮城と会津から来た二名を加えて十名の生徒が集まり、毎日午後教会内で農業一般について講義した。いらい毎年十二月半ばから四月中旬まで約四か月間開講したが、生徒は少いときは二、三人ということもあったが、平均七、八人から十人位であった。月謝は五十銭で、米や麦の物納もみとめた。彼はまた「農業と宗教」という月刊誌を出して啓蒙活動を行ない、また「小高文芸会」を結成し、ときおり雄弁大会を開くなど、青年との接触をはかるとともに、小高の文化向上のために働いた。
 杉山の小高における布教活動のなかで思い出される風景の一つは、彼が当時としては珍しいバイクに乗って活躍したことである。それは仙台の外人宣教師が乗りふるしたものを、その帰国にあたって安く書い受けたもので、その頃福島県の浜通りでは、バイクは平町に数台あっただけで、小高附近では唯一のものであった。小高は一本の道をはさんだ細長い町であったから、彼が上町から下町までバイクの爆音をとどろかせながらひと走りすると、両側の町民は何ごとかと思って表に出てみる、そうすると彼の友人で東京から来て歯医者をしていた藤田氏や信者たちがそのあとをメガホンをもって会合を知らせ、あるいは案内のチラシを各戸に配るなど宣伝に大いに校歌をあげたといっている。しかし時には田圃におちて集会におくれたり、動かなくなったバイクを引っ張って夜通し山道を歩いたこともあった。
 
小高教会堂の建設
 大正五年、会堂の建設を思いたった杉山は、信者や有志によびかけて建設資金の募集に掛かったが、杉山の活躍をヘブライ学者左近義弼からきいた実業家男爵森村市左衛門は当時の金で七百円をおくってきたために事業は急速に進み、農村青年の無料奉仕をうけて七年十二月に完成、この年のクリスマスは新しく出来上がった会堂で盛大に行なわれた。
 その間杉山の小高を中心とする活動は、福島県だけでなく、東北地方や関東地方の一部までおよび、その行動半径はいちぢるしくひろがった。彼は各地で主として農業経営に関する講演を行ったが、彼はその間に「農村経営の理想」「農家経営の実際」「農家経営実地応用五用論」など農業経営に関する著書を出版し、著作活動においても旺盛な意欲を示した。

 そこへ欧州大戦後の社会情勢の急激な変化が起り、都市では労資問題をめぐって騒然たる空気が高まった。そのなかで杉山がかつて手がけた八沢浦干拓地でも、順調に生産があがるにしたがって地主が小作人を搾取する傾向が強く成り、杉山は農民の生活向上のためには、単なる農業の技術指導や精神教育だけでは限度があることに気づいた。そして社会運動に目をむけはじめたころ、大正七年十一月号の雑誌「雄弁にのったのが沖野岩三郎の書いた「日本基督教の新人と其事業」であった。

雑誌雄弁に載り、小高を去る
 これが賀川と杉山をとりもつ縁となるが、それについてのちに沖野は横山春一にあてた私信のなかで次のようにいっている。
「ある日雄弁会の記者青柳隆治君が来て、将来のある青年を二人紹介してくれと言ったので、私は即座に引き受けて、賀川豊彦、杉山元治郎の二人について書いた原稿を送ると、青柳記者が当惑そうな顔をしてやって来、編集会議にかけた所、誰も賀川、杉山の名を知らない、あまりに有名でなさすぎるから、今少し人に知られた人物を紹介してほしいと言った。そこで私は、右手で自分の首を斬るまねをして、この二人が有名にならなかったならば、私のこの首をあなたにあげます、と言ってその原稿を持ち帰った。そしてそれが雑誌雄弁に掲載された。
 その当時の杉山、賀川がまだ全くといってよいほど無名であったことがわかって面白い。
 こうしていよいよ社会運動に身を投じようとして杉山が住みなれた小高の地を去ったのは、大正九年十月四日であった。
(杉山自叙伝・解説=横山春一、小高教会牧師・佐藤仁)

賀川氏と私の結びつき
 前記のように農民運動が発生する社会的情勢はすでに進展していた。私は当時福島県小高町という小さな町に、基督教会の牧師をしながら農業を営み、あるいは八沢浦干拓地に指導に当ったり、地方の村々の講演を頼まれて巡回したりしているうち、私にもこうした社会の動きが判って来たのである。
 大正七年八月三日、富山県における女房たちの米一揆が起るや、これが燎原の火のように全国に米騒動として拡がり、社会が急にさわがしくなり、都会では労働争議もぼつぼつ起ってきた。とくに大正八年九月、神戸川崎造船所に起こった争議は今までにない大がかりのもので、参加人員一万五千名といわれ、そして指導者の一人はかねて友人沖野岩三郎氏から紹介されている賀川豊彦氏でもあったので、私は社会運動を見学し、次第によっては社会運動に身を投じてもよいと考えたのである。かように賀川氏と私とを結び付ける接着剤の役目をしたものは、沖野岩三郎氏が雑誌「雄弁」(大正七年十一月号)に書いた「日本基督教界の新人と其事業」なる文章であった。
(杉山自叙伝)
 杉山の去った後の小高教会は、阿曽沼牧師が具体化した前後に左翼の攻勢は最高潮に達した。賀川は自分も杉山も遠からず追い越されることを予想し、十三年十一月、約八カ月の予定で世界一周の旅に立った。そして労働運動にも、農民運動にも失望したので。再び精神運動に帰ろうと考えながら、全国をめぐり、偶々デンマークの国民高等学校をみて、日本でもその流儀によって農民学校を起したいと願った。

小高を去った後も 熱心な農業指導
 小高の地を離れたのちも、農村問題の講習会等を通じて小高の人々とは親しく交わりを持ち続け、小高時代から大きな影響を与えた。
 杉山元治郎が死んだ直後、小高でも追悼式が行われたが、当時の町長は弔辞で次のようなことを語ったという。
 「杉山先生ほどの人物が若い時代の十年間を小高で過ごしたことは、小高の土地にとってはありがたいことであったが、もったいないようにも思われる。早くから全国的な活動をするために中央に出られていれば良かったような気がする」と。
 しかし、それはすこし認識の仕方が誤っているのではないか。反論するのは現在小高町で歯科医を開業している鈴木七郎さんである。なんとなれば、杉山元治郎自身は自己の半生をふるかえる時、折に触れては小高時代の十年間の農村伝道の実戦活動がいかに重要であったかという点を強調したのである。すなわち杉山元治郎に十年間の小高時代という時期がなかったのならば、それ以後の杉山という人物はありえなかったと考えられる。杉山のキリスト教主義思想と、農民運動の理念を創り上げるためには、小高における農村活動の実践は必要なものであった。この十年が、杉山の人格を形成したかけがいのない時期なのだ。杉山自身がつねづね語って人に聞かせていたこのことを、その町長は全く理解できていなかった。

気軽な人柄もった 杉山のおんちゃん
 「杉山さんが、農民の集まりを通じて、ぜんぜんキリスト教の話をしなかったように言う人がありますが、それは杉山さんが有名になってから知らない人が言っているんじゃないですか。私の記憶では、杉山さんはどんな集まりでも会の最後に必ず、私に五、六分時間をくれ、と言って農業の話などに結び付けてキリストの話をしておられたはずです。戦後、信仰の事由が保証されてからは、もっぱらキリストの話ばかりされていました、と鈴木七郎さん。
 「杉山さんというより、杉山のおんちゃん、と読んでいました。みんなに親しまれた人でしたね。杉山さんは決してああしなさい、こうしなさいと、いわゆる指導というふうなことはなさらなかったです。どんな計画でも、たとえばトマトを突くttみたいんだが、どうだろう、という提案の形でみんなにはかるんです。一緒に農村問題を考えゆこう、というのがあの人のやり方」
 杉山元治郎の農民運動家としての特徴はここにある。農民の主体性に基本的は運動の原点を置くというやり方だ。
「小高を去って、青山にいる時にも、小高に呼ばれてたびたび相談に気軽に応じてはくれたが、一つの問題に対して結論を出さず、デンマークの農民組合に関する本などを紹介して、あくまで土地の農民が自分たちの判断で対処することを考えていたようです」
 
社会党から衆院副議長に 代議士の苦労も
 代議士になってからの杉山は、現実的な政治部隊で苦労したらしいが、そのころ杉山と会ったことのある元原町教会牧師成瀬高氏はこう語る。
 「杉山さんは、政治というものは、時として黒を白、白を黒と言いくるめるような弁舌の技術も必要なんですよ、と言っていたけれども、政治の悩みはあったでしょうね」
 「土地と自由のために」と題する杉山元治郎自叙伝に収録されている国会演説「農村の窮乏を訴う」(小作法を制定せよ)、「軍事予算に反対する」等を読んでみると、その農村問題のエキスパートとしての該博さは、政治当局者の答弁に比較して圧倒的な印象を受ける。
 その格調高い論旨は常に底辺の農民の立場に立っている。民衆の声を代弁する政治家としての面目躍如たるものがあり、感動的ですらある。
 小高で農民組合運動の播種期を体験した杉山は、ついにキリスト教社会主義の黎明期の巨星として、その全生涯を農民とともに苦しみ、戦い、そして生きたのであった。
「相双新報」郷土の先行者たち 昭和51年)

はらまちキリスト教100年史

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