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小高で揺籃時代を過ごし神戸で生まれた日本農民組合

 小高教会と杉山元治郎

杉山 元治郎スギヤマ モトジロウ
大正・昭和期の農民運動指導者,政治家 日本農民組合創立者;全日農顧問;元・衆院議員・副議長。
生年 明治18(1885)年11月18日
没年 昭和39(1964)年10月11日
出生地 大阪府泉南郡北中通村(現・泉佐野市)
学歴〔年〕 東北学院神学部〔明治42年〕卒
経歴 若くして受洗し、牧師などをするが、大正9年頃から農民運動に入り、11年日本農民組合(日農)を創立し初代組合長、14年労働農民党を結党し初代中央執行委員長に就任。昭和2年全日本農民組合(全日農)結成と同時に執行委員となり、3年に日農と全日農の統一によって全国農民組合(全農)が結成されると初代委員長に選ばれる。7年全国労農大衆党から衆院議員に初当選、11年・12年社会大衆党から当選、計9期務めた。戦後は社会党に参加し、30年には衆院副議長となった。39年死去。

 明治43年には日基小高教会に東北学院を卒業した杉山元次郎牧師が着任し、農民福音学校や八沢浦干拓事業に協力して異色の伝道を展開する。
 小高町史は、杉山の自叙伝から次のように要約をまとめている。
 〔東北学院大学神学部を出て牧師となった杉山元治郎が小高で生活したのは明治四十三年より、大正九年までの一〇年間である。先ず大曲駒村夫人の姉にあたるところに下宿。病弱だったため半療養、半伝道という目的にふさわしい教会として、小高をえらんだのである。
 三年ほど経て恩師のシュネーダー博士から、大きな教会への転任、もしくはアメリカ遊学をすすめられたが、農村伝道について深く期するところあった杉山はこれを断り「自給伝道」の生活をえらぷことになった。
 月給を断って自給伝道を決意した彼のところには日本基督教会の看板とならんで、種苗取次販売の看板が掲げられ、それが次第に数を増して、売薬取次販売、多木肥料取次販売、尾張瓦製造販売、相馬焼取次販売、とふやしていった。また鋸屑を利用した煙炭の製造販売や彼の専売特許になる「杉山式互用鋤」や「杉山式自転車修繕器」なども売出された。
 彼の創意工夫によって改良された農具や、種苗をはじめとする農業資材の格安提供は農家の歓迎をうけ、片草に田畑一町二反を借りうけて本格的に百姓にとりくみ、ぶどう、桃の果樹類、大阪からはじめて導入した玉葱の栽培、キヤペツを小高に普及したのも彼であった。地元民は、その勤労ぶりと、みごとな収穫の実態をみて彼の農業技術のすばらしさに舌をまいてしまった。
 「今度きた牧師は百姓の先生らしい」ということになって杉山を訪ねて、その教えを乞う青年がふえて行った。もっとも杉山は東北学院に入る前に大阪の農学校を卒業し、和歌山県農会の技手として勤務していたから百姓のことは、お手のものであったらしい。
 彼の小高における布教活動の特長は何といっても農村青年を相手に農民高等学校を起こして、後年彼自身の「キリスト教社会主義活動」の中心をなした農村伝道の出発点をつくることにあった。
 農民高等学校をはじめた直接の動機は相馬農学校の四代目校長、伊藤春治に奨められて手にしたホルマン著「国民高等学校と農村文明」の訳書を読んだことにあったことは彼の自叙伝に明らかにされている。彼は感動した心を直に実践に移すべく立ち上がった。彼は先ず数よりも質、形よりも精神の尊重すべきことを考え、日本古来の寺小屋を現代に復活して人格と人格をぶっつけ合う教育を夢に摘いた。杉山は「国民高等学校」の名称の代わりに「農民高等学校」と名づけ大正二年二月開校した。
 第一年は付近の農村青年八名と宮城と会津からきた二名を加えて一〇名の生徒が集まり、毎日午後、教会内で農業一般について講義した。以来毎年十二月半ばから翌年四月の半ばまで、約四ケ月間開校したが、生徒は少ないときは二~三人というときもあったが、平均して七~八人から一○人位であった。月謝は五〇銭で米、麦、いもなどの物納も認められた。
 彼はまた「農業と宗教」を出して啓蒙運動を行い、また「小高文芸」を結成し弁論大会や、同人誌を発行・膏年たちとの接触を図り文化の向上のために働いた。
 また、ともすれば酒色に走りがちな青年たちには健全な娯楽を与えるため芝居、演劇を奨励指導したが、その伝統が戦後の今日まで残って、県内農村演劇コンクールに優勝するほどになっているのも、また革新的気風でも県内で有名になっているのも杉山の指導に負うところ大なりというべきである〕
 (杉山を囲む小高教会時代の写真には、山田弘、半谷清造、鈴木安蔵、田村康雄、橘一松、遠藤五郎、半谷菊衛、二本松潤周、鈴木重治、栃久保蔀、桶谷喜代治等々がいる。)
 杉山は晩年四回にわたって小高教会を訪れ、かっての関係者を集めて伝道集会や、召天者記念会などにも臨んでいる。彼は生涯かけてキリスト教徒として、農民運動家として、さらに大衆政治家として、現代日本の歩みの中に偉大な足跡を残したが、自ら苦難を求めて挺身するまでの決断を固め、模索にふけったのが小高教会時代であったと考えられる。大阪の農学校時代から、内村鑑三を知っていた。沖野岩三郎、加藤一夫などとも親しく、すでに人道主義、非戦論の洗礼をうけていた。これらの新人たちの胸中にはキリスト教的「非戦論、貧民開放、社会主義」の思想世界が生まれていた。〕(小高町史)

 小高教会と農村伝道

 明治四十三年(一九一〇)五月、健康のため一時郷里大阪府佐野町で静養していた杉山元治郎牧師が小高講義所(以後小高教会と称する)に着任した。杉山牧師は当時無牧となった原町に出張すると共に、大瓶、幾世橋、金房、大田和等に集会を持ち、当時では稀しいオートバイを走らせて活溌に活動した。殊に近隣の農民に福音を伝えると共に、専門が農業技術で元大阪府技手であつた経験を生かして農業の技術指導にも当り、鹿島の八沢浦干拓事業に助言者として活躍し、八沢村に日曜学校を設け、伝道集会を開いて精神面の指導に当ったことは有名である。杉山牧師の自叙伝から小高教会着任当時の状況を抜粋して当時を偲びたい。
 「半年あまりそうした療養生活をしているうちに、ほとんど全快した。それで気候のよい郷里地方で伝道の手伝いをするつもりでいたところ、シュネーダー博士から、もう一度東北地方に戻つて来いとの懇望が強い。永い間恩義を受け、病気の間も蔭になり日向になって助けてくれた先生のいうことであるから、東北に行くが、一番温い土地であること、病気のことであるから、半伝道、半療養の出来るところであれぱ行くと返事した。すると一番温いところは、磐城の平であるが平教会は一寸面倒で、病後の人にはむずかしい。しかし小高なら温いし、信者も数人で適しているから行けと任命が来た。それで明治四十三年七月単身小高に赴いた。
 駅前に運送店と宿屋があるが、その二丁ほどの両側には何もない。一本町で中央に溝が流れ、両側は半農半商の町で静かである。有名な俳人大曲駒村の夫人の姉にあたる人が信者で未亡人であり、元宿屋をしていたというので、そこに下宿し、その家を教会の集会にも使つていた。数人の集りであるから至極閑散で、療養伝道にはもつて来いのところである。
 少ない信者の中に隣村金房村の奥に住んでいた太田氏がいた。退屈凌ぎに散歩がてら、一ケ月に一度くらい訪問した。その途中、飯崎原というところを通るが、一面の萱野である。聞けば二宮尊徳翁が室原川から水を引き水田にしようとしたところで、表土は一寸赤粘土に見えるが、下は砂礫で、水は浸透して抜けてしまい、しかも南側の籔屋の密集している部落に抜けとうしになりたら問題が起り、さすがの二宮翁もサジを投げたという原である。秋から冬にかけて萱を苅っているとき、百姓達に「一反歩苅り取って何程の金になるか」と聞けば「五円内外になる」とのことである。それで一歩を進めて「もっと金の取れる作物はないか」と聞けば「二宮さんさえ投げた処だから駄目だ」といって問題にしない。飯崎原を通るたびに数度同じことを繰返したがそれ以上発展しない。幸い私の下宿している隣家が飯崎原に二反歩程の萱野を持っている。それで女主人に一反歩に払うから貸してくれ、私はあそこに葡萄、桃、梨などを作ってみる、うまく出来たら皆貴方にあげるというて借り受け、果樹類を栽培したところ、私の予想より生育した。これを見た、今度来た牧師は、百姓の先生らしいということになり、ある日私の家を尋ねて来た人があった。初めはなかなか口をわらなかったが、ようやくいったことは「耶蘇の話は抜きとして農業の話だけに来てくれ」とのことである。それで私は快諾してその村に出かけた。
 百姓達はよろこんで聞き、県庁から技師や偉い先生に来て貰わなくてもよい。杉山先生なら気楽に来てくれ、しかも判り易く話してくれると評判になり、それからはあの村、この村と無給巡回教師のように走り廻った。百姓達も私が基督教の牧師であることを知っているので同じ村に数回行くと「たまに耶蘇教の話をして下さい」と切り出して来る。そこで初から聞かないつもりで、心の門を閉じている人に話してもしようがない、が、お世辞にも聞こうと心の戸を開きかけてくれば大いに話そうと話したので、農村伝道の糸口もでき、小高教会建設の際はこうした村々から青年達が集って、土台固めのどうつきをしてくれ、教会の色々な集会にも出席するようになった。(「土地と自由のため」の「小高教会時代」の項から)
 明治四十四、五年中にも多くの伝道者、名士が小高を訪れたが、杉山牧師の知友である沖野岩三郎、加藤一夫、山野虎市諸氏の来訪があり、斉藤壬生雄牧師、伊藤広吉氏等の特別集会や日曜学校大会を開き多くの学童、青年を集めてキリスト伝や天路歴程の影絵講話等が行われた。明治四十五年(一九二一)末の教勢報告を見ると会員数は三十六名でその内他出身会員が十八名あり、若い人々の流出が目立って来る。礼拝出席、祈祷会出席は共に一〇名内外、婦人会一〇名、日曜学校出席三十五名と教勢は●低潤であった。
 茲で特筆しなければならないのは、教会の財的自立と言うことである。日本の伝道は日本人の手でと言われているが実情は日本の教会殊に東北の教会は経済的に自立出来るものは僅少で大部分は伝道局(米国ミッションとの協力による)の援助によって支えられていた。杉山牧師は自給独立の教会を目指して従来の伝道局の援助を打ち切り、自立して独自の伝道活動を敢行した。それは当然牧師の生活に影響することで、杉山牧師は自ら生活のためにも苦闘しなければならなかった。
 大正二年(一九二二)十二月を期して自給独立に踏み切つた杉山牧師はその日から、あらゆる方途をとって生活と戦い乍ら伝道活動をつづけた。
 それはやがて無産政党の闘士としての尊い体験であつた。
 杉山牧師は郷里から両親を招いて自ら耕地を指導し、農村に養鶏を奨励し、部落の要請に応じて農業技術の講習を実施し、更に農民福音学校を開設して物心両面の指導に当った。そのためには会堂及び教室の建物が必要であった。
 氏は当時のクリスチャン財閥であった森村市左衛門氏を説得して資金の応援を得、地元の協力を得て現在の教会所在の場所に土地を入手して、総建坪約四〇坪の二階建会堂を建築し、階上を教会堂に階下を牧師住宅兼農民福音学校教室として愈々本格的に活動を始めることになった。更に小高町に歯科医が皆無であるのを見て、友人藤田医師を招き、藤田歯科医院を開設することに成功した。杉山牧師は余暇を見て藤田医師から歯科医療の指導を受け、やがてこれが杉山氏の杉山歯科医院開業となり政治活動の足場となったことを思うと杉山牧師の活眼は偉大であると言わねばならない。またこの時期に基督者医師山田弘氏が医院を開業して小高の医師界は教会の大きな支えとなった。(以上、相馬市史より)

 沖野岩三郎がみた八澤浦干拓地

 杉山の伝道は、浪江、八澤干拓地、川俣などにも大きな足跡を残している。
 杉山の古くからの友人でクリスチャン作家の沖野岩三郎は、大正4年に八沢干拓地を訪問している。杉山が農産物の品評会の審査員をしていた現地を訪問したのだ。
 のちの昭和17年に、沖野は「八澤浦物語」を出版しているが、その一節に若き日の杉山の姿が生き生きと描かれている。干拓事業の責任者山田貞策が、明治43年に杉山と出会った場面は山田からの聞き書きだようが、その後の大正4年の品評会の様子は沖野自身の記憶によるものだ。
 八澤干拓地での伝道の端緒となった経緯と、当時の干拓地の様子を「物語」から引用する。
 
 山田さんがこの事業に第二の出発をしました時、禁酒禁煙を海老名弾正、小林富次郎、鈴木文治、服部正夫の四人にちかひました。それ以来毎日曜には八澤浦付近の町に出て精神修養の話をきくことにしましたが、お宮にもお寺にも修養講話はありません。だから中村町、小高町、原の町などに出かけて、必ず精神講話のある教会をたづねました。
 ある日曜日に相馬郡の小高町に行って、停車場近くで、このへんに教会がありませんかと聞いてみますと、一町ばかり行った所に教会があることを教へてくれました。
で、山田さんは教えられた所をたづねましたが、教会らしい建物はありません。二度も三度も同じ町内を行ったり来たりしましたが、たづねあたらないので、また元の家に行って聞いてみますと、あの焼芋屋が教会ですよと言ひました。
 へんだなあと思いながら焼芋屋の表から中をのぞきますと、一人の若い紳士が洋服を着て話しています。
 山田さんは座敷に上りました。そして十人ばかりの聴衆のうしろにすわって、だまって話をききました。
 説教の終わったあとで、山田さんは名刺を出して初対面のあいさつをしました。紳士はそこの教会の牧師杉山元治郎さんでした。
 杉山さんは、出先さんや左納さんの生まれた和泉の國、岸和田の隣町の佐野の生まれて大阪府立天王寺農学校を卒業した人です。農学校を出てから、和歌山県の農会技手になっていましたが、明治三十七年に役人をやめて仙台の東北学院に入学したのでした。
 それは牧師になって、東北六県下の農民伝道をしたいと思ったのです。
 いよいよ東北学院を卒業しましたので、東北六県下を津津浦浦、町町村村を四回まで巡回しました。そして東北地方の農民が、どれほどの知識と教養をもっているかといふことを知りましたので、小高町の日本基督教会に落ち着いて、そこで農民伝道をすることになったのです。
 杉山さんは両親と弟と妹との、六人家内です。それに小高教会の会員は、ごく少ないので月月の月給は一円五十銭しか出せないのです。六人家内に一円五十銭の月給ですから、一人分一箇月金二十五銭にしか当りません。これでは生活ができません。アメリカの宣教師から、毎月五六十円の補助をしてあげようかと申し込んできましたが、杉山さんは、きっぱりそれをことわって、自給の方法を講じました。つまり背水の陣を張ったのです。
 呉服屋をしていた家が空屋になったので、杉山さんはそれを借り受けました。家の表には、農作物種物取次販売、農具一式取次販売、多木製肥料取次販売、売薬製造販売、屋根瓦製造販売、相馬焼陶磁器取次販売、燻炭製造販売、杉山式互鋤すき販売、杉山式自動車修繕器販売、と、いふやうな看板をずらりとかけたまんなかに、日本基督小高教会の看板が雑居しています。おまけに入口には焼芋かまをすえつけてあって、そこでぽかぽかあたたかい焼芋を売っています。焼芋を売るのは杉山牧師夫人なのです。
 このありさまを見た山田さんは、すっかり感心してしまひました。そこで八澤浦干拓の話をしますと、杉山さんは、
「では、私が毎週一二回出張して、農業の方を指導してあげます。あなたは田をこしらへなさい。私はその田からどうすれば米が一俵でも多くできるか、といふ事を教へてあげます。」と、申しました。山田さんは深山の人で人の足音を聞いたやうに、うれしく思ひました。
 八澤浦へ帰った山田さんが、このことを猪之助さんに話しますと、翌日猪之助さんは小高の待ちへとんで行って、杉山さんを八澤浦へつれて来ました。そこで杉山さんはこの八澤浦干拓会社の顧問役となって、実地に農業の指導をしながら、一週間に一度づつ精神修養講話をすることになりました。(今杉山さんは大阪府選出の代議士です。)
 私がその杉山さんに頼まれて、八澤浦へ講演に行った時のことを少しく話しませう。その頃杉山さんは男鹿か町の教会内に、農民高等学校といふ学校を開いていました。学校とはいふものの普通の学校とはちがふのです。入学期は冬の雪のふりはじめる十二月で、それから、雪のとける春の四月までの五箇月間で、教授時間は毎晩夕方から十一時ころまでです。教科書といふものをつかはないで、火鉢をかこんで、いろんな話をしながら知らず知らずのうちに、農業に関する知識を授けるのです。月謝は五十銭ですがそれはお金でなくともよいので、お米でも大根でもよいのです。話は主として、日本に昔から伝はっている神話や伝説です。それを深く頭に入れないで、いきなり西洋の話を聞いて、アンダアセンがどうの、グリムがどうのと言ふやうではほんたうの日本精神がわからないといふのです。
 私はそこで一晩そこで話しました。それからその翌日、杉山さんにつれられて八澤浦に行きました。そして干拓地を一通り見ました。その時私の驚いたのは、広い田圃のまんなかに、大きな貯水池のあったことです。池といへばせいぜい一段歩ぐらいのものだと思っていた私は、その池の広さを見て、「どのくらいの広さですか。」ときいてみますと。「四十町歩です。」と、杉山さんは答へました。
 四十町歩といへば十二万坪ではありませんか。
 「何とひろいもんですなあ、これをどうするんですか。」と、きいてみました。杉山さんは笑ひながら、
「うなぎを飼ふんです」と、答へました。
「うなぎを飼ふ餌は何ですか」
「蚕のさなぎです」
「さなぎで飼ったうなぎは、うなぎくさくはありませんか」
「ここでうなぎを飼うまでは気づかなかったのですが、近頃うなぎ屋で食べるうなぎに、時時うなぎくさいのにぶつかります。やっぱり川でそだったのは、さなぎくさくありません」
「では、純粋の川そだちのうなぎが上等で、池でさなぎを食って育ったのが下等といふことになりますか」
「さうですなあ」
「では、ここへ下等うなぎ飼養所といふ立札をしてはどうです」
 私がそんな事を言ったので、杉山さんとそのそばにいた猪之助さんとは、腹をかかへて笑ひました。
 それから私たち三人は、その池の浮かんでいた舟にのって貯水池を横ぎりました。舟には小さい旗が立っていて、その旗には「福音丸」と、書いてありました。岸の向ふには、長さ三百メートルほどの石垣の堤防がありました。堤防のはしに記念碑が立っています。それはこの八澤浦に移住した小作人八十戸の人たちが、山田さんに対する報恩の意味で、みんな手手に浜から運んで来た石を築いた堤防だったのです。
 その晩私は、事務所のそばにある集会所へ行きました。二百人ばかりの男女が、ぎっしり集会所にすわっていました。きけばこの人たちは朝からここに集って、地主から配られた折詰に舌づつみを打って、相撲を取ったり盆踊りをしたりして、楽しく遊び暮らしたといふ話でした。秋の収穫が移って、今晩はその品評会があるのです。
 集った男も女も、みんなあか黒く日にやけた農民のたくまし姿ばかりでした。いよいよ品評会がはじまりますと、最初に杉山さんが宗教の話をしました。その次に山田さんが訓示を読みました。それは、今年は小作人一同が忠実に働いたから収穫も多かったが、どうぞ来年も今年のやうによく働いてほしいといふのでした。それから杉山さんが主任となって、小作人の作った米を一等から六等までによりわけて、それを一一批評しました。
「甲の作った米は粒が大きい。けれども重量が足りない。これは肥料のやり方が悪いからである。乙の作った米は粒が小さい。けれども重量が多い。これは肥料のやり方がよかったからであるが、今少し粒を大きくする方法を考えなければなりません。それは肥料の質をかへればよいのです」
 そんな批評をして一等から六等までの等級をきめますと、今度は山田さんが起って賞品を授与しました。その賞品は大きな鍋があったり茶碗があったり、洗面器があったり、みんな農家の実用品ばかりでした。
 賞品授与式のあとで、県農会の役人と郡農会の役員が一場の話をしました。賞品をもらった小作人の一人が、とても上手に謝辞をのべました。そのあとで、私に話をせよと山田さんから頼まれましたので、私は
「童話でもよければ話します」と、言いました。童話ときいて、たくましい男も女も、みんな大喜びでさかんに手をたたきました。そこで私は私の作った童話「やんばうさん」を、話しますと、話が終った時、「もう一つ、もう一つ」と、さけんで私を演壇からおろしてくれませんでした。で、しかたなしに短い話をもう一つ話したのでした。
 私は何百回か童話講演をいたしましたが、この時ほど愉快な講演をしたことはありませんでした。
 
 成瀬稿によると、杉山牧師が原町教会を援助したのは大正2年から、としている。
 小高を大正9年に去ったのち杉山は大阪に移り、賀川豊彦を訪ね、大正11年には二人が中心となって神戸市で日本農民組合(日農)を創立させ初代の組合長となった。
 昭和7年に全国労農大衆党から初当選し代議士として活躍。戦時中は大政翼賛会議員であったため昭和23年から26年まで公職追放の該当者となったが、26年の総選挙で代議士に復帰。日本社会党代議士会長、農村議員団長に選ばれた。昭和30年衆議院副議長。38年には永年勤続議員として表彰。39年に脳出血のため死去した。

 山野虎市牧師

 山野虎市牧師は、明治学院神学部を卒業している。賀川豊彦の先輩で、同期生に、小説「煉瓦の雨」で朝日新聞社に応募、小説一等当選で一躍有名になった沖野岩三郎がおり、またアナーキストになり、大東亜戦争以後東洋的汎神論に傾いた作家、加藤一夫とも同期生であった。三人とも紀州新宮出身で、青年時代に内村鑑三の感化影響を受けて上京し、明治学院神学部にはいったのであった。
 山野虎市については数々のエピソードが伝えられている。彼は、はじめ法律家になろうと志してその学校にはいったが、法律が人間の良心まで律し得ないことを悟って、所持する法律書籍を悉く焼き払い、基督教の伝道者になろうと志したということ。また、関西伝道中、集会のあとに、ある信者が再臨の時、雲から姿をあらわされるとすれぱ、イエスの何がはじめに拝することができましょうか。」と愚問を発した。
 一宣教師が山野虎市に「基督の再臨のときは何が一番先に現われますか。」と問うたところ、山野は平然として「まず褌が現われます。」と奇矯な一言を発した。このことが謹厳な宣教師ローガンを怒らしめたこと。それがために追われ、東北伝道の開拓地に赴任することとなったこと。神学生時代にはもう妻を娶っていたが、夏期中の応援伝道に行っているとき妻に一文も送金しなかったので、妻は餓死寸前に近かったこと等々。そのようなことを思い合わせると、自づと山野虎市の人物をおしはかることが出来る。

はらまちキリスト教100年史

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