原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

佐藤政蔵関係史料

佐藤政蔵関係史料
二上英朗 調査・編纂

佐藤政蔵(さノ部 七〇)
君は浜街道実業界の驍将として知らる、相馬郡原町の人、佐藤純一郎氏の男にして、明治十一年一月十九日を以て生る、厳君は戸長、郡会議員其他の名誉職に就き地方発展上に尽瘁して名望ありたり、君郷里高等小学校を卒業し、更に勉学を重ね、後農業に従事して家事を輔く、満二十歳に達するや、徴兵に合格して第二師団砲兵第二大隊に入り、三十七八年戦役には第一軍に従軍して満州各地に転戦す、後砲兵下士より転じて二等計手となり、三十九年戦役に依り勲七等旭日章を賜はる、凱旋帰郷の後、選ばれて原町会議員及原町耕地組合長の職にありて地方殖産産業の発展に力を致しつつあり、別に相馬電気取締役原町鉄工場専務取締役の要職に就きて其経営に任じつつある新進気鋭の実業家として地方実業界の重鎮として声望隆々たり、嘗て俗謡「はらのまち」を著し、同町勢の現状を紹介に力め同町の発展に資する所頗る大なり、夫人は能く内助に力を致し、三男一女あり、現に小学校在学中。(相馬郡原町本町一ノ一〇、電話四二)
時事通信社 大正3年「福島県人名碌」

明治41年の「はらのまち」と昭和25年の「歌のはらのまち」

明治35年にいとこの佐藤徳助町長が「はらのまち」という唱歌を刊行した。これに刺激されたのか、政蔵さんもまた明治41年に「はらのまち」と題する小冊子を刊行し、得意の都都逸を発表した。
この中に、ほぼすべての原町名物を織込んでいる、PRソングの濫觴である。

たとえば昭和二十五年の佐藤政蔵「歌のはらのまち」には、次のようにある。
「夜の森公園」
「山は白雪ふもとは霞 里は桜の花盛り
花の盛りは短いものよ 心して吹け夜半の風
春の夜の森おぽろにふけて 花のしぐれに月の傘
おぼろ月夜のしぐれの花は ふられながらも心地よい
此の夜の森公園は明治三十三年時の町長佐藤徳助氏が当時官有地たりしを払下げ、町民の遊園地ならしめんとの苦心の賜である。先帝の御慶事記念として出来た公園である。色とりどりの山桜、吉野桜が苔むす稜に咲き乱れ、おぼろ月夜の眺めなどまた一としほの風情であります。酌み交す盃に花片の散り込むあたり、其のまま歌になって居ります。丘の上には佐藤徳助翁の銅像があったが大東亜戦争中供出して台丈けが残って居ります。復活の日はないものか。
春はうれしや二人揃ふて夜の森公園
おぼろ月夜の桜狩り
風もないのに散る花は チョイト二人の袖の上」
(明治41年10月)
観艦旅行(一)ひげ郎

兄弟三人揃ふて、旅行を仕てみたいとは、年来の希望であった、それが一夕の戯談に花が咲いて、思ひがけなく決行する事となった、三人兄弟とは誰ぞ、一番兄は言はずかなのひげ郎で第二番目は灰声かくれもなきハイ郎弟は涛声文壇の美声家として知られたるモンケーである
三人は趣味趣向が一致して居る、だから話が合ふ、体力も一致して居る、だから運動も共にする、ひげとハイが角力を取ればハイに勝星多くハイとモンが角力とモンが勝ち、モントひげではひげが勝つと云ふことになって居る、ハイの最も得意とする処は水泳で一名河伯と称せられ、モンは優に百貫を挙げ牛と呼はる、而してひげは脛長くして駈歩に妙を得て居る、今日即ち十月十六日、尋常小学校の運動会があった、来賓の杓子に鞠を載せての競争には、ひげは一等賞を得て喝采を博したのである。
夜の二時発だから早やく寝よふと思ふて居ると、モンケーが行って来た、服を取りに行くの着るので夜もふけた、有明の月で停車場に向ふ靴の音が夜の静かさを破る、ハイ郎既に停車場に在り、定刻より少こし遅れて二時二十分発車、眠むい晩である。
伊出といふ処に新らしい停車場が出来るので測量中だとハイが云ふと、側の人が地盛中だと云ふ、ハイもさる者、測量して地盛中だと負け惜しみを云ふ、押しが強よいとひげが笑ふ、此処から久ノ浜の間にトンネルが幾個あると側の人が云ふ、ハイが首をひねって七ツだと答ふ、九ツだと争ふ、違った者が梨を買ふ事にしよふと云ふ、ハイ負けそふになり、ポンと手を拍ちアー小さいのが二つあったと降参しながらも負け惜しみを云ふ。
何処の駅で太陽が見えるだらふと云ふ、助川だと云ふてハイまた負けを取る
イヤハヤお気の毒、松と海と、旭との配合は何とも云ひぬながめである、
千波沼の水は涸れて、梅公園僅に、紅葉せるを見る、朝の風冷めたく身にしみて面白き話も出ず、
上野に着く、米艦隊が来ると言ふので西郷さんも水を浴びせられて御化粧中だ、動物園では猿の子の可愛らしいのが目につく、特にモンケーが見どれたとしやれを云ふ、団子坂は菊人形が大評判、また蕾が多い、夜の浅草なども色々面白ろい事はあるが目的が先なので一向、参り気が仕ない、疲れたので楽に寝た。

(二)
十八日午前小石川に河合氏を訪ね、豚で中食を馳走になり女子大学に案内され、それから三越を見た、日比谷公園は紅白の天幕を張って、歓迎の準備中、東京市内は頗る所負けず劣らず装飾を、こらしての歓迎ぶりは、いらいものである
午後七時に新橋を発し鶴見を過ぐれば—-
○艦隊のイルミネーション日米の艦隊三十余隻が、凡て火となって、湾内に浮かんだ壮観と云はふか偉観と云はふか、それに神奈川と横浜とで打ち揚げたる煙火は、絶間なく天空を彩って居る、走る窓から見まかくれに、ながめながら愈々横浜停車場に近づくに汽車に故障が出来て、止まるに場所もあらふに家並の陰で、煙火は音ばかり、列車の中では皆騒はぐ、そのもどかしい事ったら無かった、二十分以上またされた、
桟橋に出て見ると、各波止場もイルミネーションで飾りつけてある煙火とそれが水に写る水兵は其辺に上陸して天幕の歓迎を受けて居る、学生通訳が其処此処に世話を仕し居る、良い加減の先生達も見える、国旗や絹団扇や花傘や何やかや、御土産を一かかい位つつ買ってニコニコ帰って来る者もある、愛らしい顔の水兵服の水兵、黒んぼの水兵、ピカピカの将校等何れも物珍しげに見える、周布神奈川県知事の夜会のおよばれであらふ、将校連が馬車や腕車で引きもきらず、提灯行列は路の要して万歳を叫ぶ、アー夜の横浜、実に是が開港以来の快挙と云ふてもよいであらふ
三軒許り旅館を断られて四軒目で一行五人十畳の間を借り受けた、トメッー とガルリーも来る、ガルハーは通訳の為めに先きに来て居ったのである、原の町野の馬追の晩は、ごろ寝が五十銭で食わせて九十銭だと云ふ事であったが、さすが横浜は、片はたごで、一円二十戦である。

(第三信)
使い方も分からぬ物に珍らしまぎれに買ふた処は実に無邪気で面白ろい掃除がすんで日陰の処に、ゴロゴロ寝コロンで休んでるものもある、買ったハンカチーフなどを広ろげて何かささやいて喜んでるものもある、何しろ、一万六千噸と云ふ大艦であるから一寸見た位で何が何やら訳かった物ではない、迎いの船が来たので辞して帰った、此のコン子チカットに対したのが三笠で鼠色だけに堅たそふに見える、対馬海峡でバルチック艦隊を粉砕したと思ふと一種の満足を覚えざるを得ない
次にはガタンビシンと騒がしい音がして居る、何事かと見る食堂である、大方食事がすんで今食卓を片付ける処だ、皆畳んで天井にかける、仕かけになって居る、次に将校次に兵士の賄場次には兵器庫、此処には陸戦隊用の新式六連発銃や背嚢から剣其他何でも整ふて居る、一方には飲用水の樽の置場がある、肉類がある、馬鈴薯たまねぎがある、パンの倉庫もある、上甲板に登ると指揮官の室がある、そこには七ツ許り電話の装置がある、側にサーチライトがある、そこから甲板を見下ろすと、日本の商人が入込んで水兵が百四五十人そこ此処を取まいて、上陸用の靴を買ふ土産物は団扇や何かを買ふ菓子や果物、ハンカチーフあらゆる物を買ふて居る、一人の水兵が三寸許りの尺度用の物で先きが二又の刃のついた物を買って来て何する物だらふと問はれた、こっちも良く分からんので不得要領の答を仕た。
一人の青年が、三笠とコン子クチカットで何れが強いだらふと云ひ出した、戦って見なければ分かるまいと、一人の米人が答いたので一同大笑となった、戦争する事などは無論無い、そふして何れとも極まらぬ方が幸福だと云ふた者がある、一同は是に賛助した、単に是れ丈けの会話ではあるが米国大西洋艦隊が遥々東洋迄廻航し日本艦隊が是れを迎ひ、東京横浜の市民否、日本帝国臣民が挙って是れを歓迎して居る其間の消息を説明し得て余りあるではあるまいか。
観艦記は茲に筆とめ、日光山の奥に紅葉狩でも試むる事としょふ、その横路日記がうまく成立するや否や
(原文のまま。)

注。明治四十三年に原町にも電気がやってきた。野馬追の夜景には夜ノ森公園が電飾された。おそらくは政蔵の建言があっただろう。観艦式での夜景の見事さの体験があったのではなかろうか。

明治42年8月22日の福島民報に、当時の原町デサイプル教会員たちの姿がある。佐藤政蔵の子孫に伝わる原町基督教会関係の写真に、江川牧師、河村牧師、千葉牧師を含む当時の信者らの姿が写っている。政蔵の子供たちはみなデサイプルの洗礼を受け、教会学校に通っていたが太平洋戦争によってプロテスタント・キリスト教会はすべて日本基督教団に統合されたため、その他の信者らとともに日本基督教団原町教会に合流した。

「○原町青年音楽隊」
〔既報の如く相馬郡原町青年音楽会は去る十八日午後六時より原町座に於いて開会したるが場内場外は紅提灯を以て装飾し聴衆無慮五百余名会長佐藤政蔵氏喝采場裡に開会の辞を述べ終れば江川夫人のオルガンに連れて場に登れるは日曜学校の少年隊『これは私しの』のと無邪気なる遊戯続いて花の如き少女隊の合唱あり・・〕

ひげ郎と視察外記 明治43年

明治43年3月2日より断続的に連載
(一)43.3.2.
(二)43.3.3.
(三)43.3.16.
(四)43.3.17.
〔〇旅はうれしや話しするままに、列車は進む向ふ遥かにながむれば
アレは会津の若松市チョイと見えます鶴ヶ城
(五)43.3.10.
(六)43.3.20.
(七)43.3.21.
ほんにうれしや
無事に県下の視察も了へて
思ひがけない此の慰労
飯坂げいしゅのとりなしは
チョイと福島民報式
文人たちとの交流

明治43年7月12日民報
〇相馬の野馬追(三)
雲雀野

ひげ郎さんは人夫を督励して馬場の溜水を抜き、凸凹を均らざして居る、僕は公園の芝草の上に立って・・・
(十日の夜原町にて巴生)

明治43年の野馬追

政蔵は、民報記者の巴江(齋藤亀一郎)を原町に招待している。
〔〇原町実業団設宴 相馬郡原町実業家佐藤政蔵阿部源蔵小林茂助松永留之助門馬勇蔵(二上注。雄造)山村芳太郎滝沢壽郎小国忠助の諸氏は去十日の夜・・・久保和三郎志賀千代蔵両氏の出張を歓迎して岩城屋に招待して懇親会を開きたるが佐原(二上注。佐藤)徳助氏挨拶を述べ・・・〕

明治43年11月
ハイハイモシモシ電話開通

〔阿部市助佐藤政蔵氏尽力して〕
とある。

明治43年 上洛野馬追

〔而して右出馬方に就いては佐藤徳助、半谷清壽、藤崎重行、遠藤六之助、佐藤政蔵其の他の諸氏等専ら事に当りて奔走し四月二日〕

ここに佐藤ひげ郎君の「嬉しや節」を紹介する
〔都三月、桜咲いた咲いた、九段の社、相馬騎馬武者二百余騎、旗はヒラヒラ花が散る、チョイト鎧の上〕

明治44年7月11日
△・・・野馬追には馬鹿に熱心して野馬追町長と迄云はれた佐藤徳助氏が病褥にあるのは実に惜しい事だ。曰く佐藤政蔵、遠藤六郎、松岡重盛、野崎亀喜、堀内秀之進等で故人となった今村秀芳氏は玄徳ではないが、今でも其人の名を呼べば三軍の士気忽ち賑ふとした概があった相だ

大正2年2月15日民報
○原町より(第三信)
十一日夜病床にて 杜雨生
○堀川一正氏を始め佐藤ひげ郎氏など大に感ずる所ありて断然禁酒を公告声言したる事は喜ぶ可き傾向と申すべく候

大正2年福島新聞
9.23.鉄工場のひげさん、海岸タイムスの岡和田君、帰省中の杜雨君など尋ねたき友は沢山あれど

大正3年福島日日
6.24.問題の経過(上)佐藤髭郎 6.25.問題の経過(下)

注。佐藤徳助が野馬追祭の日程を変更すべしとの意見を吐いたことに神社側からの猛烈な反対が出たため、ひげ郎が徳助を弁護して論じたもの。

大正3.9.24.
祝全国自転車競技大会
福島日日新聞社主催

木幡モスリン工場
大橋鉄工場
植菊鉄工場
原町鉄工場

大正3.10.10.福島日日
へなぶり日記 原町ひげ僧正

注。大正4年、民報は桑村という記者が野馬追いを見物に来た。
「雨の相馬」(4)民報 大正5年7月24日
岡和田と佐藤政蔵について言及がある。

私立草津温泉の一騎亭に行いた、岡和田君も髭さんも一緒で、夫れに松浦君も加はった。

注。また別紙同業の後藤迫洲もこの時の紀行に書いている。

浜路の旅 迫洲生

群衆と騒音の中を、同業桑村君と半谷馬城君と、原町の有志数名の案内に、雲雀ヶ原へと向ふ、青草の匂ひ高い原を、汗と雨に濡れ乍ら群衆は永く続いた。知事が反返る可く用意された天幕休憩所へと入って同業子ズラリと知事の側に腰を据える。唯観れば、緑野茫々、数千の騎馬武者は、旗印を青嵐に吹かせ乍ら勇ましく縦横に疾駆する。壮観な旗取りの争奪戦を観て午後三時雲雀ヶ原を辞した。
有志、佐藤政蔵、岡和田甫両名其他が、途中、付近の旗亭に請じて呉れる。

大正5年7月 雑誌「海岸」広告
原町鉄工場

大正7年 明仁東宮の野馬追見物

福島民報 大正10年
3.28. 原町公設競馬場を新設する計画
民報10.4.27.鹿島憲政演説 原町議選挙 鹿島座で政蔵ら
民報10.5.7.理想選挙 佐藤政蔵
5.21 原町安全候補
5.24. 原町安全圏内の人
民報10.5.30. 中村理想選挙破壊

福島日日大正10年
11.17.原町双輪競技 優勝佐藤諭
12.15.歳末の原の町 原町クリスマス 薫陶園美談

大正12年福島新聞
8.27 盆の郡山に人波 活動写真や商店は景気 駅の乗降数
相双政友発会式 林庄太郎
9.28 相馬の投票箱に疑問
9.28 県会 相馬区第二区
当選鈴木重郎治 千四百七十八票(政再)
落選佐藤政蔵  千五十三票 (憲二)

大正14年より昭和2年まで原町長をつとめる。

昭和元年 朝日
12.17. 原町を中心に実科他女計画

福島毎日 昭和2年1.19.原町公認競馬場設置許可さる 資本金十万円の株式会社を組織して来四月頃開始
朝日2.2.9.
原町排水工事 着々と進む
相馬郡原町における空前の大事業である市街貫通の廃水工事は旧年来着々工事を進めてゐたがこの程西原線五百間、北原線八百間西原道路改修に百五十間の基礎工事完成し軌道添の一線のみが次年度に残されることになつたがこの工事に県からは三千二百五十円の補助があるはず

福島毎日新聞 昭和2年
1.18.福島相馬間鉄道問題に就て宮城県側と協議
1.19.原町公認競馬場設置許可さる 資本金十万円の株式会社を組織して来四月頃開始

4.2.原町行き 虎峰 ひげ郎に言及あり

5.19.夕 正調相馬節をレコードに
6.25.天下の壮観相馬野馬追
6.30.仙鉄局の新しい試み 野馬追祭を絵巻物にして
7.12.野馬追 広告
7.15.野馬追 第二日目の盛況 活動写真隊も数組みえた

民報 2.8.25.相馬民政候補 佐藤政蔵氏を推薦 県議会議員選挙に
4.28. 原町実科高女 新築成る 民報
9.17. 太田秋之助氏言論戦開始 民報

朝日 2.8.27. 政蔵 24日原ノ町長を辞職して出馬を決した
8.31. 町長をねらふ 原町政友派が
佐藤氏辞職の後を

朝日9.28. 政蔵次点 3295
大田秋の助4657

福島毎日
8.27. 佐藤町長辞表を提出して立候補 8.27.民政党幹事会に於て 佐藤氏は快諾
9.2.原町政派の悪辣手段 佐藤候補の
9.4.大失敗に終わった原町民大会
9.14.夕 佐藤政蔵候補ポスター破られる 原町署選挙事務打ち合わせ
9.24.夕 佐藤候補の奮闘 連日到る処に言論戦 同上が然として来る
原町長は佐藤氏に再選か
10.15.夕 副柱竣工
10.18.近づいた原町競馬大会
10.23.夕 同
10.27.夕 雲雀ヶ原の競馬近づく
11.1.原町競馬盛況 11.2.原町競馬最終日

昭和2年朝日
11.19. 廿日決戦投票
原町町長選挙
波乱を予想
既報相馬郡原町町長選挙については民政側はあくまで佐藤政蔵氏を推薦すべく結束したが中立の一角 ら商銀原町支店長志賀隆明氏を擁立、政友派また同氏を推薦すべ 形勢にあり町長選挙会は相当波 あるものと見られるが同町区長 部の名で里政蔵氏を町長に推 すべく建白書を町会に提出し十 日一同連べい辞職した

昭和3年福島毎日
4.16.
原町紀念事業
古趾映画会組織
相馬郡原町にては今秋の御大典記念事業の一環として町会議員佐藤貫了、木幡清、同忠太、小林勉、梅田武氏発起となり映画会を組織し著名なる名所旧跡、会社銀行、学校、神社仏閣、商店、町内枢要の地其他一般の希望撮影をなし之を町役場に供ひ記念すべく準備中であるが既に申込をなせる者もあると

昭和4年民報
2.24.甲陽軍鑑映画

浪人時代に苦肉の策
企画製作はじめた野馬追騎馬人形
注。昭和2年の落選により浪人。妻の兄にあたる木幡清が民友の原町支局長であったので、野馬追人形の製造販売を宣伝する記事が毎年掲載された。

昭和4年
郷土色豊かな 野馬追武者人形
今年のお祭りから売出し
佐藤政蔵氏の苦心

多年郷土芸術方面に苦心研究を重ねていた原町本町佐藤政蔵氏は
天下の偉観、野馬追に因める武者人形を製造すべく計画樹て粘土を以て試験した結果は頗る好成績なる為め早速原形を作り一家揃つて製造に着手したが、非常に結果よく此度は大々的設備を以て製造に努め各地へ輸送し郷土の名を拡める由であるが、鎧甲冑などは自然色を採色し騎馬には馬具一切装飾を施した美麗なるもので野馬追見物帰りの土産としては最も適当であり、是に依つて郷土紹介の意味を含めるものであるとなし町民一般から非常に期待をせ寄られてゐるが、東京某問屋に於ても一手に引受販売なす旨の通知があつた
(昭和4年6月24日民友)

民報4.6.27. 原町競馬席の観覧場改築
民報9.3.スタンド改築
民報11.15.霊山史実映画

民友 昭和5年2.14. 原町の民政党分裂
民報3.21.「霊山」映画公開
民報4.3. 「霊山」原町座で四五日
民報 昭和5年5月4日
前原町々長の音頭で盆踊り
観衆の度肝を抜いた
相馬農蚕校運動会
最後に大櫓を取り巻いて総員盆踊り之が音頭取りは前原町々長佐藤政蔵君

民友5.6.28.政蔵 野馬追人形

民友5年
野馬追ひ名物
騎馬武者人形
大工場を設けて
愈愈製造に着手
原町佐藤政蔵氏は郷土の誇り野馬追に因んだ騎馬武者人形をして地方物産たらしめて見たいとの希望から数年間研究を重ね昨年漸く原形が出来あがったので是が製造に着手

県議会における政蔵

注。昭和6年から県会議員に当選、就任。相馬が2人区となったため。54才。

民友6 9.16. 写真
佐藤政蔵氏
愈々出馬に決定
直に後任手続きを執る
期待さるる猛進

民友6.9.18夕 写真
佐藤政蔵氏
祈願をこめて
愈々真剣の活躍
断然理想選挙を標榜し
三名の定員に五名の候補が乱立し苦闘を続ける中に断然理想選挙を標榜して立った、相馬郡の民政党公認の佐藤政蔵氏は十五日立候補届を了すると同時に諸般の準備を整ひ直に実戦に取りかかったが多少立遅れの気味あり二回の落選が同情となって何でも彼でも今度こそは同氏を当選させなければならんと大田村の相馬妙見神社に祈願をなし四尺の神札を安置し真剣になって活躍する様涙ぐましいまでの情景を呈してゐる(写真は胡麻札と佐藤候補)

9.27. 佐藤政蔵氏 最高得票
12.6.県通常会 政蔵氏の質問

佐藤政蔵君  相馬中学校に講堂建築の急実科高等女学校の補助を一層増額する意思はないか史蹟名勝記念物保存費を計上してゐるが何の程度まで保存してゐるか相馬野馬追祭を保存する意思はないか
野馬追祭の淵源より説き起し
野馬追祭に出馬する八百騎一千騎の馬具は年々消耗してゐる、国民思想の善導上にも効果大なるものと思ふ
その他一項につきユーモアを織込み能弁をふるって質す(民友12.11)

昭和7年 8.16.政蔵 野馬追人形 民友
(別掲・写真)

民友10.6.原町競馬
10.15.原町競馬十五日から
民友12.27.原町競馬日割り決定

民友8.1.13.政蔵 多門将軍の歌
佐藤町長の銅像
8.3.24.政蔵 ヒゲローヘナブリ
8.12.25. 奉祝歌 佐藤政蔵

民友9.11.6.娘身売りを守れ
11.16.売られし乙女 今年すでに1500名 保安課

はらまちキリスト教100年史

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