原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

 昭和初期の日基原町教会

 昭和初期の日基原町教会

昭和3年の原町日本基督教会

 成瀬稿75年略史「第四章 昭和前期(終戦まで)の原町教会」より昭和初期の部分を次に引用する。

「1 昭和二年(一九二七)から同十年(一九三五)まで
 佐藤牧師は昭和二年三月「福音新報」誌編集の任を帯ぴて東京大森教会に転じ、同年四月中村教会から諏訪修治牧師が赴任した。

 諏訪修治牧師

 この年は東北中会に於て教勢向上と教会形成促進のため新作伝道の名の許に特別伝道計画が樹てられ、七月には会津若松教会から円忠牧師、翌三年(一九二八)には小林亀太郎牧師(仙台北四番丁教会)、昭和四年には中村教会で相馬地方合同で東北学院教授矢野猪三郎の特別集会が催され同年七月にはミッション伝道開始五〇年を記念して記念特別伝道が行なわれて、小平国雄牧師(東京神田教会)が来講した。
 昭和二年(一九二七)八月には小高教会に瀬尾正夫牧師が着任したが病弱のため諏訪牧師が毎週これを助けた。
 また昭和三年鶴沼よしえが婦人伝道師として着任、小高教会無牧時代は出張して日曜学校や夜の集会を応援した。この当時の教勢を見ると、朝拝はあまりふるわなかつたが夕拝は可成り盛会であった。
 その理由は石川組製糸工場が女工員の教会出席を奨励したこと、新たに操業を始めた原町紡績工場の工員が集会に出席した関係と思われる。
 然し昭和四年(一九二九)六月には諏訪牧師が岩手県釜石教会に転じたので定住牧師着任まで約一年間仙台から小林亀太郎、角田桂嶽牧師等が週一回出張して集会を指導した関係で、朝の礼拝を休止し夕拝のみとし、日曜学校は信徒の奉仕によって続けられた。
 昭和五年四月(一九三〇)東北学院神学部卒業の小林寿雄牧師が着任し、またこの年五月元小高教会牧師、現衆議院譲員の杉山元治郎を招き相馬地方各教会で特別伝道講演会を催し、原町に於ては小学校講堂を会場として実施した。
 小林牧師は家庭訪問を盛んにしてよく信徒の家庭の状況を把握し、鶴沼伝道婦は日曜学校を中心に家庭との連絡を密にした。その結果同年のクリスマスには男三名女二名計五名の受洗入会者があり又他教会からの転入者も女三名が加えられ順調に教勢が伸びたが、同時に他に転出する者も二名あつて会員の移動の多い年であつた。
 昭和六年(一九ニニ)一月十四日町内各派教会の聯合祈祷会が原町教会で行なわれ二十数名の出席者があり、それを期に月一回聯合祈祷会を持つことになつた。同年四月佐藤繁彦(ルター研究家)を講師として大衆伝道を行ない、約八○名の聴衆があり、又同講師により「宗教々育問題」懇談会を開き十八名の出席があった。更に十二月九日には、「神の国運動」として賀川豊彦の伝道集会を小学校講堂(公会堂)で行ない十数名の決心者を得、翌十日には原町農蚕学校で一般講演会を催し盛会であつた。
  小林寿雄牧師

 小林牧師在任中の特記すべき活動としては、原紡並に石川組製糸工場に定期の聖書講義を行なったこと、原町婦人矯風会支部の例会毎に聖書講演を実施したこと、また昭和七年(一九三二)九月から週間学校を開始し、原紡、石川組に日曜学校分校を開設して宗教々育の徹底を計つたことなどが挙げられる。その結果日曜学校は在籍男四五名、女九五名、計一四〇名に達し、出席平均も男三二、女七三、計一〇五名と飛躍的に増加し、週間学校も在籍男二〇、女三八、計五八名、出席平均男一七、女二九、計四六名と非常に有望であつた。
 この間小高教会の瀬尾牧師は病弱のため小林牧師が集会を応援し、次いて瀬尾牧師は小高教会を辞して一家原町に居住し、後中村町に転住し間もなく同牧師は他界された。
 また同年伝道局から二三円の補助を受けて会堂内部修理を行なつた。
 以上のように教勢上昇のうちに、昭和九年鶴沼伝道婦は教会員遠藤剛男と結婚、代って百川伝道婦が伝道を助けることになったが短期間で他に転じ、これより先昭和八年(一九三三)四月には小林牧師は仙台市原町伝道所に転じたが教会の活動いよいよ整つた際の牧師移動は教会にとって損失であつた。
 後任には岩手県宮古教会から菅井喜七牧師が来任した。老練の牧師であつたが不健康のため充分の活動も出来ないまま同年十二月三日永眠され、中村教会の宇津木牧師司式の許に教会葬を行なった。
  菅井喜七牧師
 このようにして教会は三度無牧時代を迎え、その後は中村教会から宇津木牧師が毎週出張して集会を指導し、亘理伝道所の稲垣牧師や東北学院神学生の夏期伝道等により又青年信徒達の奉仕により日曜学校が続けられた。信徒達は、「小さき群よ、恐るる乍れ」とのみことぱに励まされ、伝道に当った結果その年のクリスマスには男三、女三計六名の受洗入会者が与えられた。
 昭和九年(一九三四)十月宇津木牧師は中村教会を辞任して東京に転ずることになり教会は再ぴ「飼うものなき羊」のような状態におかれた。次いで会計役員成瀬銀一郎は脳溢血に倒れ、青年信徒は相次いで仙台、東京、その他に転出する者多く教会は危機に立たされることに成った。
 然しそのような中で七月には個人伝道者道籏泰誠を招いて町内三派教会合同の特別講演会を催し、十月には各派教会合同の親睦会を開いて二一名の出席を見、十一月には東北中会の「信仰復興作振伝道」計画による深瀬忠蔵(喜多方教会)井関磯美(会津田島教会)の特別伝道を行ない、日曜学校その他の集会は、深田正雄、寺島春義、星静雄等が奉仕した。
 昭和十年四月(一九三五)無牧を続けた教会に東北学院神学部卒業の小野寺恭司が着任し、先ず青年信徒と共に路傍伝道を計画し毎週土曜日秋葉神社附近で実施した。昭和初期の教会役員は概ね次のようである。
 阿部源蔵(管理) 成瀬銀一郎(会計)
 遠藤剛男(書記) 高沢隆康(管理)
 塚田正雄(書記)」

 昭和9年の無牧時代に中村と原町まで応援した稲垣好雄(仙台東六番丁教会)牧師は、1977年に発行された中村教会90周年記念集に「中村教会と私」と題して次のように回想する。

 昭和九年六月、宇津木牧師が病気で静養されることになったために、中村教会より応援を求められ、亘理教会在任中に何回か出張した。当時の亘理教会の月報(亘理の光)には、中村教会と原町教会(宇津木牧師が兼牧だったのか)を応援した旨記されてあるが、何回出張したのか記憶に残っていない。亘理教会は当時、日曜午前の礼拝は行わず、夕拝だけ守っていたので、日曜学校を妻と会員にまかせて出張したわけである。

はらまちキリスト教100年史

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