松本良七と亀井文夫

本町の四つ角の近く、木幡銃砲店の奥の屋敷に一家が住んでいました。当主は松本良七という三代目の原町町長で、代議士松本孫衛門の子分で、福島民報社の部下。政友会県支部の後継者だった。妻のクマは孟母三遷のことわざどおり長兄のきょいくのため、仙台の陸軍幼年学校に入学させるため、夫を置いて宮城県に家族と転居した。そこで米屋を経営し、貧しい家庭には升に余計米粒を盛ってこぼすような人情家だったので、コメ騒動で書く地の米屋が襲われて土蔵が破られたが、クマの店だけは客たちが守ったという。のち進学で東京に上京したため、寂しくて定七は地方政界を放擲して家族を追って上京し合流。数年して床屋で髭を剃っているときに切り傷の感染症のために死んだ。クマは茨城県で貧に耐え聖愛に生き結核療養所を後継・経営して、慈善の生涯を終えた。長男はカトリック信仰を貫きロルネリウス会というキリスト者の会に所属し、弟の文夫は共産主義に目覚めてソビエトロシアに渡航し美術を学んだ。のち映画監督になり、東宝の前身に入社し、昭和14年の「戦ふ兵隊」というドキュメンタリーで発禁処分となり、戦争賛美の迎合作品で軍部にしっぽを振ったすべての映画人の中で唯一反骨を貫いて太平洋戦争野開戦と同時にただ一人獄中に拘束された。戦後は民主的時代の到来で「戦争と平和」「原爆の子」など社会的、反戦的な作品を他さくしたが、ことごとくGHQと保守政権に弾圧され、またもや発禁処分に。骨董屋の主人として商業映画で糊口をしのぎ晩年は「トリ・ムシ・サカナ」などエコロジー的な未来へのメッセージ強い作品を世に問い、つねに前衛的な日本では珍しい骨の或る記録映画監督。原町区橋本町の泰澄寺に墓がある。

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