古い同人の死去

二上 英朗·2018年12月25日火曜日表示5件
 ことしは旧原町市二見町の成田真さんが四月に亡くなられた。十二月には本町の門馬直孝さんも亡くなられた。成田さんは、二本松生まれで、長く学校事務職として、古いタイプの文人として市井に生きた。門馬さんは、原町市長を四期つとめ地方政治に活躍した。同じ文学同人会の仲間だった。「海岸線」という文学愛好会だ。
 昭和四十年代に、ぼくは高校生で活字に飢えていた。地方では稀な文芸雑誌を出しているグループに、のこのこと参加していたので、年長のこれらの同人の年少の「仲間」だった。
 タイプの違うこのお二人のほかは、ほとんどが学校教員で文学の創作に励むというアマチュア詩人や作家であった。彼らの目標は県文学賞という福島県教委と福島民報社との共催の文学賞で、高校生のときに青少年奨励賞というのを受賞したことで、そうそうたる顔ぶれが我家に集まってくださった。
 最長老はシナリオを描く社内慶雄さん。高平。小学校教員。成田真さんは学校事務主査。二見町。門馬直孝さんは商家油屋という呉服屋の専務で最古の老舗の御曹司。渡辺義明さんは橋本町。小学校教員。県文学賞を受賞し、ユニークな粘着性のある文体が面白かった。若松丈太郎さんは栄町。高校教員。県文学賞受賞。このころは会を休んでいた松永章三さんは詩人で県文学賞受賞。柊立星というペンネームだった。
 海岸線という会の名称は、浜通りを象徴する命名で、福島県下には会津若松に「盆地」、福島市に「少数派」といった名だたる文芸誌が文芸の旗を挙げて競っていた。ちなみに、いわきにすでに「海岸線」という雑誌があったが、原町はいわきと絶縁状態で、同じ浜通りといっても隔絶していた。それほど距離感が遠かったので知られてなかったのだ。ぼくが海岸線に入会したのは、もうグループは終末期白色矮星の時期にあった。
 女性同人の小野田茂代子は旧姓渡辺。カシマ町の中村旅館の娘で、中学校教師で小説を書いていた。医師の小野田内科の院長の妻となった。茂代子さんも県文学賞を目標にして次々に作品を発表して受賞したが、これを機に、会員がほとんど目標を果たしてしまうと、会創立当時の熱気はおさまり、雑誌の印刷費の膨大な赤字だけが残っていた。
 この赤字を補填していたのは、事務局長を買って出ていた経済人の門馬直孝さんだった。門馬さんは文芸愛好家ではあったが、ほかの創作に情熱精進する同人とは異質な会員。

市長室の直孝さん  二上 英朗・2019年2月23日土曜日
門馬直孝氏が市長在任中に、原町市役所の三階市長室に、かなりの回数を市長訪問をした。高校生時代からの友達感覚だったと思う。
市長との会見は、秘書課の待合室コーナーのソファーで待つのだが、そのかたわらに月刊政経東北と福島民報などの書架がある。役所が定期購読している新聞雑誌類だが、現物はここに置いてあるので、一般市民が実物にアクセスできるわけではない。
待合室で、自民党の浜通り北部の最大支持組織のかなめの人物の伊藤博人氏でさ面会の順番を待っているのだから、さすが現役の市長の権限というものの公的立場とはすごいと思った。選挙に出るところまでは、その伊藤氏こそが市長候補を決めたのであるから。
門馬市長を訪ねて、最初の頃は原町私史シリーズの四六判の単行本を新刊で出版するごとに持ってゆき、その場で10冊ずつ買ってもらっていたからだ。市長はそれを部下の部長やお気に入りの課長たちに配っていたようである。このころの彼のセリフには「講演をただで聞くな。お金を払って聞け。自分の勉強になるのだから」という言葉が印象的だった。その辺が田舎の政界では、ひどく青年的でフレッシュで、人気があった。
最初は同人雑誌の「海岸線」の編集も出版も一緒にやっていたのだから、文学仲間のその延長である。彼は支持している齋藤邦吉という自民党の代議士の名前を一ページ大の広告にして割り付けし、自分で金を出す。純文学の小説や詩を載せる文学雑誌に政治家の巨大な名前だけの選挙ポスターみたいな頁があるのだから、珍妙なレイアウトである。
それがこの人の神経だったから、同人たちも気を遣って誰も何ともいわないし、ぼくもそんなものだと思っていた。

原町青年会議所 1973年 第4代理事長 門馬 直孝 若人と創ろう 築こう 豊かな未来

1984年には、ブラジルの同郷人を初めて原町から訪問した、ぼくは最初の一人になった。公式的なメッセージとして、この市長室で1月末に門馬氏に小型の録音機で、市長からの言葉を、サンパウロに届けたのである。
このときの音声は、サンパウロの福島県人が経営する日本料理店「山鹿」で、10人ほどの同郷人に集まってもらった。会長の鈴木幸雄氏に、カセットテープを渡してきたが、音声は、ビデオに撮影したので、市長の声がそのまま流れている画像が、YOUTUBEにアップしてある。
あぶくま新報を創刊してから、ドキュメント相馬野馬追の連載を3年間続けたから、通年でしょっちゅう市長からはコメントをもらいに市長室を訪問していた。週に一回は記者クラブの記者会見があって、その週のブリーフィングがあったが、そういうのは日刊紙の仕事だった。
気まずくなったのは、再選以後の連続当選で、無投票で市長独走の時代になって、だんだんと独裁色が強くなってきてからのことである。

1993年門馬直孝市長を表敬訪問
二上 英朗·2019年5月12日日曜
九月十四日、原町市役所に、門馬直孝市長を表敬訪問。
三月に市のバスを貸して欲しいと頼んだ件は、いとも簡単に拒絶されたのに、実際にオーストラリアの高校生を連れてくれば、コロリと態度を豹変させて表敬訪問の時間を取ってやるという。
全く、原町市役所というのは、何を考えているのか。
私が、ただの民間の草の根の交際交流の運動家だからという理由だけで、十二日間のホームステイ事業の意義を全く無視しておきながら、市長表敬訪問を受けるという。
それはそれでよい。オーストラリアの高校生たちが喜べば、それでよい。
しかしながら、同席したホストファミリーや、ほかの要件で原町高校に留学中のアイスランドからはるばるやってきたソルビョルグ・アイナードッテイルさんが市長のかたわらにすわっているにもかかわらず、加えて海外帰国子弟としてカナダ留学から帰ってきたばかりの原町高校生(彼等は原町高校卒の市長の後輩である)の二人の男子生徒が市長応接室に同席していたにもかかわらず、市長は興味も示さない。
ただオーストラリアの生徒と引率教師とばかり喋っているのだ。
これは、まずい。
市役所の秘書課の人間たちは、いったいなにを考えているのだろうか。
市長に、何の事前の説明もしていなかったようなのだ。
市長職といえば、激務である。
市の事業でもない今回のホームステイ・プログラムに対して情報を持っていないのは、あたり前のことだ。
「市長さん、こちらはアイスランドから原高に留学中のソルビョルグさんです。そしてこちらは原高生でカナダ留学から帰国したばかりの大原君と井上君、そしてホストファミリーとして今回オーストラリアの高校生を迎え入れてくださっている原町市の〇〇さんと、鹿島町の〇〇さんです」
私が発言する筋ではなかったが、しかし一番大事な役割を果たしているこれらの人々が、なぜこの部屋に同席しているのかを、秘書課の人間は、門馬市長に説明もしていないのだ。
私は、私の企画に賛同してくださって全面的に協力していただいているホストファミリーの人々に対して申し訳なく思って、さしでがましいけれども市長に申し上げたのである。
この不手際の責任は、門馬市長には無い。みんな秘書課が悪いのだ。
そのようにしか解釈のしようのない市長の態度であった。
 1993年9月号「政経東北」ホームステイ協奏曲 オーストラリア高校生がやってくる
p82~
 次の箇所に、鹿島町の栗原利行氏と、東電のイチエフで働く安川宏の献身的な協力に謝辞を記した。

門馬氏が初めて市長選に名が出たのは37歳頃である。
新聞にも出馬の可能性が示唆されたから、本人もじゅうぶん出馬の意思を持っていたということだ。しかし周囲の状況も本人も熟したものではなかった。
門馬氏は、原町市の旧家油屋呉服店の長男として生まれ、県立原町高校卒。学習院大学英米文学科中退。
原町市議を一期つとめ、農業委員などをつとめた。これも市長へのステップだったといってよい。
その一方で、文芸同人雑誌の事務局長をつとめて地元作家の育成に力を尽くすなどの文人肌を持ち彫刻好きは有名だ。読書好きの文化人でもあり文芸雑誌「海岸線」パトロン的存在であった。
現在の原町市立病院は、中核的基幹病院としての性格を持たせ、原町市、小高町、鹿島町、飯舘村の一市二町一村を主な診療圏として昭和48年に新築されたが、建築後18年も経過し、現代医療の診察に支障をきたし、病院経営上からも非効率な面が多く、駐車場が手狭になったうえ、同地での改築が不可能なため、新築移転が待たれていた。
1990年3月号 政経東北 田中直紀候補の落選で揺れる浜通り政界 現職が独走態勢を固めた原町市長選挙の行方 二上英朗

あぶくま新報創刊1985年 二上 英朗・2019年3月27日水曜日
あぶくま新報という旬刊タブロイド紙を創刊させたのは1985年である。
門馬市政の評論は、3年目からということになる。
当時の原町市は、前市長がスタートさせた原町火力発電所の建設をめぐる遅延についての報道から、新聞は始まった。
建設がスタートして、金が地元に落ちるようにという市民の願いの空気がそのころは横溢していた。
80歳を超えた老練な渡辺敏市長を県会議員の大田豊秋が押して、これを門馬が破った。新市長になった青年新人にフレッシュな市民の期待があった。
この青年市長を歓迎するごとく、われらのあぶくま新報で迎えた最初の記事は、三企という齋藤邦吉系の企業からの献金をあからさまに報じた記事であった。
福島市にある県庁機関に、すべての県内政治家への献金目録とリストがあるが、一般市民は見られないのであるが、係員に5000円札の鼻薬をかがせて、門馬氏の名前が明記された三企の領収証の写真を紙面に掲げたのだ。

門馬直孝氏、市議選への初出馬

二上 英朗·2019年1月17日木曜日表示1件
門馬直孝氏が市議選に初出馬する直前に彼なりに政策を考慮して、それを書き出していた時期に電話で呼び出され、とある割烹料理店で二人だけの会談に誘われたことがありました。
私が高校生の時に、昭和45年秋に県教委と民報社が共催主催の福島県文学賞の青少年奨励賞というのを受賞したので、同人の大人たちが我が家に集まってくれたことがあり、若き日の門馬直孝氏も、ほかの学校教員の同人のアマチュア作家たちち一緒にやってきた。その後も、文学と言う共通項での絆だけぐらいのことで、彼とのつながりでした。ただし田舎の経済人の門馬氏は町の有力者として原町の御三家と呼ばれる最古の資産家の御曹司三代目として好みも暮らしも豊かさに慣れていて、私を招待した場所も高級な料亭でした。
彼はこれから地方政界に打って出ようという決意を披歴し、料理の箸袋の裏を広げて自分のいま現在の思いをメモして列挙しはじめた。経済、教育、町づくりなどの項目を、いくつかののキャッチフレーズにして、3つほど挙げて、これをどう思うか、と感想を求めてきた。つまり、布川氏や古山氏と同じ、年少の友人から若い世代の意見も聴いておこうという同じ構造だった。
これがこの日の主題なのだろう、と思った。彼にとっては、商工会議所とか商工会のような経済人の仲間にはすでに同じような親しい内輪の会合をしていたろうし、若い異質な文学つながりの文章の面から親しい後輩からの文学的要素も加味したかったのだろう。彼の政治的デビューのポスターと、最初の公約こそは、それこそが彼の自己表現としても「作品」であった。

門馬直孝市政第一期から第四期まで
 直孝氏は自分の市政の最初の四年間を四期に分けて、それぞれに主要な政策の柱を立てた。市議会議員に立候補する前には、彼は農業委員になった。呉服屋の御曹司で商業畑の、農業をやらない彼が農業委員になってから政治の世界に飛び込んだのは、原町市という地域が町の発展が周辺の農地の宅地化によって伸長してゆく基本的な姿を認識していたからだ。
 それまで原町の最大の地主である佐藤叶屋こそが最大の資力を蓄え、町の活力の源になったのは、農業委員を兼務している保守層の議員たちが、新住民として原町に移入して新興住宅地の農地を農業委員会の認可を得て宅地に住みだしたことからだ。その斡旋を仲立ちする長老自民議員の働きが生涯の票田ともなり、選挙の資力ともなった。
 門馬市政が最初の制作に農業を掲げたのは、その農業委員になるときに学習した原町の歴史だった。
 アメリカ大統領が、ザ・メッセージという会計年度の初頭にやる所信表明があるが、市長も就任の最初に所信表明を演説する。新聞は、それを報道し、批評もする。解説もする。
 門馬氏の市長初当選は1982年、昭和57年のことである。ぼくはそのころ、勝美屋という地元のスーパーが、ダイエー原町店としてデパート的な大型店になって、販促室長の鹿又泰課長の下で、デパートの販売促進予算で企画展示をやっていた。その2月22日に、鹿又氏は脳溢血で突然死された。

門馬氏、市議選デビューの初ポスター

門馬直孝氏の市議選への立候補ポスターが、町中の掲示板に張り出された時の感想。
どこか市内の幼稚園か公園のジャングルジムに、たくさんの幼児たちが明るい笑顔でカメラマンを向いているのであろう。その中央に、これから原町市政界に向かって希望を抱いて夢を語ろう、という紳士のイメージに満ちたはつらつたる印象だった。デザイン的にも原町の印刷屋としては、グラフィックな革新だったろう。つまり、インパクトが弱い文化的な、洒落た、都会的な印象。でっかい名前が連日の連呼にふさわしい顔のアップというすべてのほかの候補の中では、異質だが字が小さくて目立たない。
そのかたわらに、日本地図の首都東京を示す都の六角形の記号と、そのすぐ上方によく似た大きな五角形の市章がマーキングしてあった。どうみても日本の中心に原町市があるよ、というふうに見える。ははん。なるほど。門馬さんの頭脳の中では、日本の中心地こそ原町市なのだ。あるいは彼の脳裏の願望に、理想の町なんだという認識あるいは願望こそ、がすでに日本の中心になっているの
だ。とても市議会議員の選挙ポスターではない。
意識下ではすでに国政に打って出るかの印象さえあった。名前と顔だけを大きく印刷したほかのポスターと違って、田舎の選挙民の視点からのポスターといううより、門馬氏の心の内にある政治のイメージを伝えたい、あふれる思いの表れなのだろう。初々しい新人の時期の門馬氏の正直な時期の表白だった。

市長室の門馬氏を取材するあぶくま新報主幹

1986・1・28 あぶくま新報に門馬氏疑惑報道す
疑惑生む業者選定
原町方部環境衛生組合 ごみ焼却処理施設建設工事
汚染処理施設含め総額20億円の大型プラント
子会社名で市長後援会に献金

怪文書まで出回る 昨年夏、まだ業者が未確定の時期に、三機工業を中傷する怪文書が議会関係者に郵送されてきた。
 県でも当惑顔
岡谷市(長野県)では同じ業者が十一億円で落札

2面
●1面関連●
門馬直孝管理者(原町市長)に聞く
 ごみ焼却処理施設建設工事

本紙からの質問事項

回答
政治資金は知らなかった

あぶくま新報 1986年2月8日

献金会社は実在せず 住所は三機工業本社

 代表者は支店社員 虚偽の届け出明らかに
深まる謎 ごみ焼却処理施設建設

首かしげる日環センター
業者選定 厚生省指導にもそぐわず


田中眞紀子の印象
 テレビで聴く流暢なアナウンサーのしゃべりのスピードの、二倍の速さと情報量で、一気に三十分をしゃべりまくったろうか。
 田中家の家庭内のエピソードから、父田中角栄の近況、新潟三区での支持者の熱狂的な応援ぶり、政界の裏話、外交の世界のこと、そして福島のことなど等。
 いずれの論点も、語れば二時間あっても三時間あっても足りない、といった調子で、全くよどみなく、ズバリズバリと断言し、その合間に豊富な数字がポンポン飛び出す。
 今太閤ともてはやされた頃の田中角栄の姿をほうふつとさせる場面であった。
 工場の経営者が、田中直紀の支持者である。女工さんたちは、動員された組で、このほか田中角栄の娘が来るというので、わざあざ足を運んだ者もある。
 この日は直紀の地区後援会の婦人部長の息子が結婚式を挙げ、真紀子が招待され、これを機会に何か所かで辻説法がセットされた。
 午後からは場所を変えて、住宅街の支持者の一軒を会場に「演説」。
 語った内容は、ほぼ同じだが、寒さにふるえながら聴くのと違い、びっしりと膝を接して拝聴する田中真紀子の弁は、まことに強力な夫への応援演説であった。
 要するに結論は、
 「三十年も代議士をやってきた者が地元に何をしてきたか。みなさん、落ちる落ちるなんていう選挙じゃないんです。日本の政治は官僚が動かしている。その官僚のところへ予算をもらいに行くには、選挙区の得票数が決め手なんです。父は新潟三区で、黙って十七万票いただいた。福島三区は定員三人ですが、議員は一人でいいんです。うちのパパに一票でも多くください」
 ということになる。
 その前後に、面白い選挙区分が語られた。まことに当を得た分析なので印象に残った。

新潟三区と福島三区

「新潟三区の人は、田中角栄という字しか書いたことがないので、今度の選挙で何と書いていいのか分からなくて困った、と言ってるんです。あるおばあちゃんは、越山会のバッジを神棚にあげて大事にしている、という。ありがたいことです。どっさり雪が降って、米しかとれない場所で、何もないのが新潟三区。それだからこそ、みんなが一本になって田中角栄を支持してくれた。
 それに比べて福島三区は、気候は温暖だし、港はある、米も魚も取れる。いちおう何でもそろっているから、人間がおうようなんですね。選挙で保守系から四人立ったら票を分ける。おじいちゃんは年寄でつきあいもあるからあっちへ入れて、息子は会社関係でこっちの候補。新人が出て頼まれたから嫁さんの票はそれじゃあそっちへ回しておけ、というような具合です」
 どうやら、この辺の投票行動に、福島三区型の人間行動パターンが集約されそうだ。

1988年3月号

バック・ツー・ザ1982門馬直孝伝

無所属現職の渡辺敏市長に、前副議長神谷かね二氏、前市議門馬直孝氏が挑んだ。
渡辺氏は当時八十歳で戦後初の民選町長として二期を務め、昭和二十九年に原町が周辺村との合併をすすめたが、初の市制下での市長選で落選。二度目の市長選挙で雪辱を果たして市長に就任。しかしその後、山田貢氏と市長の椅子を争って敗れ、山田市政三期を雌伏し、山田氏引退の後再び市長に返り咲いたという波乱万丈の人生を歩んだ人物。

その一生を地方自治とともに歩んできた経歴は原町市の戦後そのものを物語る。

門馬市長の三選出馬が打ち出されたのは平成元年。後援会総会の席上。
前日の九日は同窓会長をつとめる県立原町高校の創立五十周年の晴れの式典挙行の日であった。

追悼門馬直孝氏 静かだった平成3年 二上 英朗・2019年3月2日土曜日
平成三年は実に静かな年となった。
前年の原町市長選挙も無投票三年二月の原町市議選に続いて、四月の県議選相馬郡選挙区で加藤貞夫氏が無投票当選し、同じ四月の相馬市議選も無投票となった。
相馬地方でどうしてそのような無投票続きになったのか不思議なほどだが、その背景を見てみると、前年の総選挙で田中直紀氏が次点で落選している。坂本剛氏にわずか104票という僅差。おまけに原町市の選挙運動員の中から逮捕者が事情聴取を受けて、この中の一人が警察の事情聴取を苦にして入水自殺を遂げたことから、この敗戦の後遺症は長く続いた。
それまで政治の畑に人材を供給していた水脈が、ある日突然に枯渇する。自民党の派閥間競争でしか政治の活性化が望めない状況で、竹下派の創設で古い一つの派が消失し、そして時の流れは容赦なく田中角栄元総理は死去してカリスマが消える。田中直紀氏の宮沢派への転身。政界再編の激変。もう一人の新惑星木幡弘道氏は自民から転身して日本新党の風に乗って赤じゅうたんを踏み、続いて新進党から比例区で当選。

政経東北 五選に冷ややかな原町市民


水井清光市議インタビュー

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 具体的に、何がしたいのですか。市長になったつもりで挙げてください。
 まず、安全な町づくりです。そのための肋骨道路の整備が不可欠です。当かい村の臨界被ばく事故でも分かるように、相双地域は見えない放射能の教委のもとで生活しています。
 原町市は一〇キロ圏内に入っていませんが、いったん双葉地方に立地する原発で自己が起きると、風向きに注意してできるだっけと奥に逃げなければなりません。しかも、発生した一〇キロ圏内の自治体には緊急の連絡体制やヨード剤の準備があっても、危険がほぼ同じ原町市には準備がない。時間を争う場合、情報伝達に一〇分ぐらいのズレがある。おそらく、避難する自動車は一斉に南北に脱出するでしょう。
 しかも、ほとんどの」人はテレビやラジオで」第一報を知る事になりますから、福島、相馬の住民も仙台方面に逃げるので、国道6号線は大渋滞するはず。結局、西側の阿武隈山地へ逃げるしかない。そのための肋骨道路の整備なのです。その道路は普通、生活道路、産業道路にもなります。
 双葉地方の人も当然、西へ逃げるでしょう。そうなれば、浪江から西へ向かう国道288号線に避難車が殺到します。原発関係の自動車だけでもかなりの数でしょう。高速道路ができたとしても、アクセスできるのはインターチェンジしかないから、そこがネックになる。近くに原発を控えた地域である以上、何もしないわけにいかない。事故は起きないで欲しいが、最悪の事態を想定し、市民の安全を確保しなければならないということです。
 山出し一年生議員奮闘記 水井清光原町町議の人生模様 政経東北
 彼が62歳の時に、懲罰動議を出された時に、支援のつもりで雑誌にインタビューを書いたが、ほとんど持論をそのまま書いた。かれの「水井清光の議会レポート」を頼まれて、全戸配布で全市にばら撒いていたから、彼の政策も一般質問も、ぼくのパソコンから発信したものだ。

 その彼が何度目かの市議選の補選に出た時に、門馬市長が駅前のホテルで集まる会で、門馬市長が隣の席に座った。
 その時、門馬市長自身が「きょうの投票で、あなたは当選できない。それはね」と、わざわざ解説してくれたという。

 市長選より面白かった原町市議選補選
という記事を出した。門馬氏じしんが語った内容をそのまま書いた。
1998年7月
市長選より面白かった原町市議補選
 

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