競争なき三区の悲劇

しかしながら、代議士の座が今や、最終目的のようになって、ただセンセイ一人の経歴だけが栄光を帯びるという政治のあり方は、もうウンザリだ。
代議士センセイの仕事は、葬式にデンポー打つことなのか。飾りなのか。
中通りの亀岡高夫や天野光晴を見てごらんなさい。一区で、仕事を持ってこなかったら、彼等はすぐに落選する。
しかも、単に地元だけの面倒を見るというなら、魅力はないが、有能な官僚でもなく、バックに巨大な黒幕がいるわけでもないが、とにかく良く働くセンセイなのは、働かないとセンセイを降ろされてしまう事情があるからだ。
つまりは。競争原理が彼らのエネルギーのもとである。
たった四名の定員に、人材は何人でも出馬してくる。浜通りの選挙とはだいぶ違う。
結局のところ、浜通りには魅力ある人材がいないのである。
どうしてしてそうなのか。
尻っぽを咥えた蛇のような堂々巡りの繰り言になってしまうが、冒頭の格言に戻る。
住民そのものの反映なのである。
ダメな住民はダメな代議士を出すほかない。
人材に原因をかぶせてしまうのもかわいそうだ。
考え方からして、そうなのである。
いい例は双葉にある。
一「第原発エネルギー地帯とほめあげられて、巨大なリスクを抱え込んでみたものの、電源三法交付金は、県と立地各自治体にがっぽり入り、人工の少ない地元には、立派な公共施設と道路ができた。
しかし、そこまで至る道路も鉄道も旧態依然のまま。企業も工場も来るわけはない。
相馬も同じである。
東京から最も遠い場所は、福島県内ではどこか。ヒノエマタと相馬原町である。そこまで行く時間を要すれば、盛岡まで行って小用が足せる。
「自然と人情が遺されている」
と言う人がある。
「常磐自動車のめどはついた。オラたちのセンセイのことを悪くいうな」
という人がある。
取り残された環境と平和が、あるであろう。常磐自動車道も仙台まで伸びるであろう。
だが、それは二十一世紀のことだ。 それまで、じっと待つのは住民自身である。
怨みをのみながら一票を投じて、町を捨てていわき市へ逃れ、中通りに流出し、首都圏へと漂流してゆく零細中小企業主や、商店主が増えている。
シャッターを閉めたままの店舗が、じわじわと増えてきた。
彼等の声は聞こえない。
町からいなくなるからだ。
選挙事務所には、旧来から恵まれた町の有力者たちと二代目たちが席を占めている。
彼等はすでに恵まれて居る。だが新規に町に参入しようというエネルギーは拒まれる。
名門や、才能や、器量に恵まれた候補者を、生活に困らない満足しきった伝統的な町の中枢の人々が推す。
この状態で、一体誰が開発推進を熱心にするのか。
ところが、時代はジワジワと、こyした旧来のダンナ衆の商売にも影響を及ぼしはじめている。
本当の生き残りゲームが、すぐに三区にも押し寄せてくるのだ。

 

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