▲参考 志賀擬山(しが・ぎざん)原町生まれのジャーナリスト。本名志賀儀三郎(しが・ぎさぶろう)
福島民報は現在まで存続する福島県内で最古の新聞であるが、創刊当時は経営困難のためたえず廃刊の危機に見舞われていた。これを救ったのが旧相馬藩(南新田村)の名家に生まれた松本孫右衛門だ。代々襲名する名で、藩主から功により特別に酒造業を許された家柄。松本仙蔵を父に明治六年生まれ。幼名を碩蔵といった。東京物理学校に学んだが、父の死去により帰郷。浜通り地方は常磐鉄道開設の景気に湧いていた。土木業に開眼して鉄道工事で成功。その財力をみこまれ請われて倒産寸前の民報社長になり、見事に立て直した。明治三二年に主幹として迎えられ、三三年に二代目社長に就任。個人経営とし、同郷の後輩でのちの原町町長松本良七(亀井文夫監督の父親)を主幹とした。自由党政治機関紙であった民報を商業紙に改革した。無料配布していた株主からも購読料をとり、県報を請け負って刷り込むなどの営業努力によって収益を上げて実績の実をあげ、その手腕が評価された。三星炭坑社長などの事業家と政治家の二足の草鞋で成功し、町会議員・県会議員をつとめ、政友会が旗揚げすると代議士となり、自分の同志を応援して交互に出馬するなど気配りの人だった。政友会院内総務までつとめ、昭和二十三年死去。
大正期の一時期、松本社長の代理をつとめた副社長志賀千代蔵も同郷原町の後輩。それまでの旧式印刷機を廃して最新式輪転機を導入して技術革新した。千代蔵の弟志賀儀三郎も明治三九年に入社以来、大正八年まで十三年つとめ平支局長に。大正九年に原町支局長・政友会支部幹事長に就任。松本の代理で千代蔵が社長になっていた間、社員が退社した時に一緒に辞職。見込まれて福島新聞に引き抜かれた時には兄から勘当されたが、昭和九年に原町助役に就任。十年には民報に復帰して理事となった。惜しむらくは福島市に転居して間もなく死去。葬儀は故郷の原町で執り行った。
(二上編「福島民報を救った松本孫右衛門」より)

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