岡和田甫詳伝

本籍 福島県相馬郡石神村大字牛越字東北五番地
現住所 福島県原町市西町1丁目126番地
明治16年1月3日生まれ

明治13年に父新蔵が品川弥次郎が東北巡回のとき富田高慶を訪ねたときのことを語る

「二宮尊徳の高弟 富田高慶」(広瀬豊 敏子)のP267に、近隣古老の談として次のようにある。
「岡和田甫氏(原町在住)昭和二十二年数へ年六十五歳、付近に伝わる伝説の一部を述べた。」
として
品川弥次郎が内務省勧農局長のとき、東北巡回のとき石神村に富田高慶を訪ねたときのことを語っている。
この一件は、富田自身が日記(明治13年11月3日)にしるしているが、品川は同局役人とともに、富田はその時に居合わせた塾生とともに面接した。
そのなかに、渡辺庄太郎、斎藤太郎(高教長男)と一緒に、岡和田新蔵(甫の父)がいて、お茶の接待をした。いずれも少年で談話の内容は解らなかったが、その時の様子を伝えている。
後年、相馬民謡ほか伝統芸能の振興につとめた岡和田甫の父親が少年のときの記憶である。

学歴
明治22年4月 原町尋常高等小学校入学 仝33年仝校卒業
明治31年以後 福島県立第4中学校及び東京明治法律学校等に学び 後相馬郡石神村双峰塾佐藤精明先生の門に入り国語漢文を修む
経歴
明治35年12月一日 横須賀海兵団入団五等機関兵
三等行状を命ズ
明治36年5月20日 四等機関兵
明治36年5月26日 実地訓練ノタメ定員トシテ八雲ニ乗艦ヲ命ズ
明治36年12月1日 三等機関兵ヲ命ズ
〃         二等行状ヲ命ズ
明治37年2月6日 佐世保発艦日露戦役ニ従事
明治37年12月1日 一等行状ニ陛ス
明治37年12月15日 定期補充交代ニ付横須賀海兵団入団ヲ命ズ
〃          入団
明治38年1月31日 補充トシテ有明乗艦ヲ命ズ
〃          乗艦
明治38年3月14日  退艦
明治38年4月15日 二等機関兵ヲ命ズ(有明艦長ノ移牒)
明治38年4月30日 補充トシテ霰乗組ヲ命ズ
〃    〃     乗艦 日本海海戦ニ従事
6月19日 北遣艦隊ニ編入
明治38年10月14日 舘山帰着
10月15日 一等帰還兵ヲ命ズ
明治39年1月6日 十日間冬季休暇
明治39年1月17日 第 種症ニ依リ横須賀海軍病院ニ入院
〃   〃    横須賀海兵団ニ入団ヲ命ズ
〃   〃    入団
明治39年4月1日 明治37、38年戦役ノ功ニ依リ勲八等白色桐葉章及ビ金百円ヲ授ケ賜フ
〃   〃   明治37、38年従事記章ヲ授与サル
明治39年6月9日 全治退院 入団
明治39年8月10日 夏季休暇十五日間全閑
明治39年11月1日 善行章壱番線ニ昇級
明治39年11月30日 現役満期

明治40年 原町座で原町青年音楽会 余興で岡和田登場
明治41年 東宮の野馬追台覧

海岸タイムスを創刊

明治42年11月 相馬新報社副社長に推さる
明治43年11月 海岸タイムス社長となり新聞経営並に印刷業に従事す

明治43年1月5日
原町向上会 相馬郡原町尋常小学校五年六年生徒及び卒業生より成れる原町向上会は二回の総集会を二日午后零時より同校内に開く 岡和田甫題未定等の講演あり午後五時散会せり

明治44年7月11日民報
野馬追の前触れ
△臨時の列車 海岸タイムス社に寄ったら野馬追号編集で多忙最中「時に臨時列車はあるか」と聞いたら「あるともある、なんぼうでもある。」大変な勢いで野馬の様に其処で時間割を見ると十二日は不通の に是程なんぼてもあり。
大正1年福島新聞9.23.鉄工場のひげさん、海岸タイムスの岡和田君、帰省中の杜雨君など尋ねたき友は沢山あれど
大正4年、民報は桑村という記者が野馬追いを見物に来た。
「雨の相馬」(4)民報 大正5年7月24日
岡和田と佐藤政蔵について言及がある。

私立草津温泉の一騎亭に行いた、岡和田君も髭さんも一緒で、夫れに松浦君も加はった。

また別紙同業の後藤迫洲もこの時の紀行に書いている。

浜路の旅 迫洲生

群衆と騒音の中を、同業桑村君と半谷馬城君と、原町の有志数名の案内に、雲雀ヶ原へと向ふ、青草の匂ひ高い原を、汗と雨に濡れ乍ら群衆は永く続いた。知事が反返る可く用意された天幕休憩所へと入って同業子ズラリと知事の側に腰を据える。唯観れば、緑野茫々、数千の騎馬武者は、旗印を青嵐に吹かせ乍ら勇ましく縦横に疾駆する。壮観な旗取りの争奪戦を観て午後三時雲雀ヶ原を辞した。
有志、佐藤政蔵、岡和田甫両名其他が、途中、付近の旗亭に請じて呉れる。

大正5年7月
海岸タイムス社から「海岸」という雑誌を発行 発行人岡和田甫
「今回社業漸くその緒に着き従来の体裁を一変して茲に隔週雑誌の発刊を見るに至りしは社業の一大進歩にして其基礎の健全を立証するに憚からず候海岸と改題せるは血気の少年より真摯なる青年に到達せる元服の意表に有之候」「次号よりは浜三郡に於ける諸般事情の機関として極力文物紹介の任に当るべく候若しそれ其主義主張に至りては飽迄善事の味方悪事の敵従来タイムス社の方針の外ならず候」

「本社は去る(明治)四十三年創立以来諸君に多大の御同情を忝なふし感謝の辞も無之次第にござ候」(大正5年「海岸」)
印刷人 山岡隆利
元町長隆剛の関係者か
広告に原町印刷合資会社 電話四十二
がある。ここで印刷していたと思われる。

相馬記者団創立

現在の東町
俳人新年会
大正7年正月 原町にて海岸タイムス前

石井栄吉
岡和田甫
遠藤周輔
柴田柏花
柴田春雨汀
脇坂拓子
門馬碧川子
豊田呼星
小林宵月
高野丁石(順二郎)

大正7年 海岸タイムス社 「原町地方案内」

大正7年福島日日
1.20.
荒川偉三郎 岡和田甫 相馬記者団創立
1.13. 相馬記者団発足
大正7年2月4日
原町町長不在問題
在相記者団臨時会は去る一日原町海岸タイムス社内に於て開会し原町町長不在問題に関して熟議し午後黒田岡和田両幹事及び大和田、荒川の四名にて

大正12年
大正十二年七月の野馬追も過ぎて間もなく当時の原町町長伏見勇七氏、町会の元老たる大橋勝治の各氏、野馬追問題で上京せられ、当時在京の私を訪問されました。同氏の談によれば野馬追祭典も年々盛んになり汽車その他の乗り物を利用して来観する遠来の客の激増して来たことは誠に喜ぶべき事でありますが、地元としては祭典に要する費用が増大し祭典の執行が困難となりました。昔は野馬追の祭場地の地元は多大のうるおいがあったと云われたが今日の地元は寄付や其の他の出費で民間には怨嗟の声さえ聞くようになりました。
実は乗り物の便利がよくなったので観客の多くは日帰りする人が多く、地元は何の利益も見る事が出来ない、このような祭りの連続となっては結局地元は負担に堪え兼ね遂には祭典を中止の止むなきになるかも知れない。今にして此の対策を講ずる事が最も肝要であるが何か名案はないかとお話がありました、以上両氏の談によりお祭りが盛んになって地元の町が困るという皮肉な現象を深く考えさせられたのであります。
其の時ふと思い浮んだことは明治七年以来野馬追は復興しても野馬追の夜の祭り、流れ山踊りの復興が忘れられていた事であります。この踊りは古来野馬追の姉妹行事として世に知られ、相馬に伝わる唯一の古典芸能であるからこれを速かに再興して他の郷土芸能と共にこれを公開し、これによって観客の足止めを計る事を最上とすることを建策したのであります。

祭典当日の次第

時は維大正十三年七月十一日祭典日のことであります。六十年振りで復興を見た吉例流れ山の会場は希望により原町土木監督所前の大広場であります。会場の南方に北面して広大なる舞台が掛けられ舞台両側の大柱は緑葉にて装られ、架上には相馬流れ山踊りと大書したる額面を掲げ舞台の左右には、大鳥毛、五色胴白吹流し等の旗がものものしく立てられ、舞台の正面にはつなぎ駒の幔幕に一文字の注連縄が張られ其の中央に御神幣を安置し両側には真榊と陣太鼓と不忘乱の旗が立てられてあります。

吉例の流れ山行事

空前の盛況

復興将に五十年

振興会の歩んだ足跡★
古典芸能全国大会出場★
大蔵省主催三百万円宝籤発行記念 全国民舞踊競演大会に出場!★
振興会員の活躍に見るべきも数多し

大正13年7月 相馬郷土芸術振興会創立 仝時に会長に推さる

大正14年10月24日民友 株主総会
原町支局 岡和田甫
女性候補として
民友青年会議 岡和田とみの原町

大正15年4月9日福島毎日
相馬流山の出演者決定 組頭岡和田甫

昭和2年1月19日民友
中村 佐藤勝信

昭和2年 報徳殿を建設

1月14日 端した金で売られる二宮尊徳の家 民報

原町夜の森公園に今月中移転に着手

相馬郡石神村役場旧庁舎はもと二宮尊徳翁の住宅をそのまま使用したのだが改築に伴ひ不要になったので二宮尊徳遺物保存会で此由緒ある建物を此まま破棄するを遺憾となしこれを利用して二宮報徳殿を建設せんとの議起り付近十二ヶ町村長発起人となり費用の寄付募集をなしたるも建設敷地に行きなやみを生じ今日に至っていたがいよいよ敷地も夜の森公園東北隅と決定したるを以て今月中建築に着手する事になった
2.1.26.朝 尊徳翁の遺宅 原形のまま原町へ
2.1.27.福毎
石神村役場売却醜聞

昭和2年 石神村役場落成記事 民友
石神村役場
新築落成式
二宮尊徳翁の旧庁舎を
廃して現代的に建築
…………………………
◇・・・来賓八百余名
相馬郡石神村役場は曾て本紙上に報導したる如く有名なる二宮先生の一家が住居せらるたる家屋なるが、明治三十一年尊徳翁の令孫尊親氏北海道開拓のため渡海せらるゝに際し
該家屋を 石神村に交付し同村にては永く二宮翁の徳を記念するため之を村役場として尊重されて来たが、時勢は遂に村当局を動かし二宮家の旧庁舎を廃して新に役場建設の事に村議一決なし本年一月中旬を以て起工し大和田村長、池田助役、工事委員佐藤圓治、田原甚助、牛庚(渡ノ誤リカ)長治、武野直人の各氏監督の下に請負人太田亥之吉、高橋栄助両氏と協力して該工事を急いだる結果僅々三ヶ月を出でずして洋風セメント瓦ぶき木造りとは言へ頗る現代的な新庁舎が、約九百圓の工事費にて出来上がつた、よつて去る八日午前十時より之が新築落成式を
挙行する こととなり来賓として南相に於ける各町村長及び官公吏並に同村有志家を合して八百余名同村長の案内にて式場に設けられたる新議事堂に入れば正面の床上に掲げられた二葉の写真之が昔を忍ぶ二宮先生の住宅である古色蒼然たる葺萱の家も鬱蒼たる屋後の老杉も曾ては世人が崇仰の的たりし例の厳めしき冠門も今は唯この画面に忍ぶだけで、早変りしたる新庁舎と対照なし転々今昔の感に打たれざるを得ない、やがて一同は定めの場所に着席、先づ池田助役開会を宣し大和田村長の式辞並に工事報告あり次で工事委員その他の
功労者に 賞品及び賞状を授与し来賓として佐藤原町長佐藤原警察署長、水戸同村校長その他の祝辞あり受賞総代の答詞ありて正午、式を閉ぢ牛越河原に設けられた別室に於て盛大なる祝宴会を催し特に当日を卜して開催したる郷土芸能二十余番を観覧して盛会裡に黄昏頃散会した
(福島民友新聞・昭和2年5月11日)
二宮尊徳翁の住宅を保存

8.11. 広告往来 相馬盆踊レコード売り出し 民報

昭和2 日比谷で剣舞

昭和3年7月11日
福島民友新聞社
原町支局
主任 岡和田甫
中村支局
主任 佐藤勝信
という広告が載っている。
この日付は野馬追の初日である。

御大典記念全国馬匹大博覧会で流山踊りを披露

10.14.流山踊りも加へて野馬追出場決まる全国馬匹博覧会
10.27. 野馬追大もて 帝都で大好評きのふ馬匹博覧会に練り歩いた五十騎 民報

昭和3年 民友 10.1.御大典奉祝 演芸大会主演者投票、民謡 岡和田甫

代々木原頭に於ける御大典記念 全国馬匹大博覧会に参加

昭和三年十月二十五日、賀陽宮恒憲王殿下を総裁と仰ぐ御大典記念全国場匹大博覧会が東京の代々木の原、原頭において開催されました。
その時に馬事関連として相馬野馬追騎馬武者八十余騎の出場と姉妹行事相馬流れ山踊りもこれに参加したのであります。
この大博覧会に参加した騎馬隊は何れも地元の重要知名の人々のみであって当時この催しの責任者たる東京府の報告書によれば次のように報じられています。余興及び其の他振興施設の一番に当日午前十時 福島県相馬野馬追武者行列は、赤坂青山一丁目の陸軍大学校より練り出した。隔時代的の一大行列は、先頭に大旗を押し立て、徒歩徒卒の先行に鎧兜で身を堅め、大身の大小を腰にたばさみ飾りつくした大和鞍に身を乗せた乗馬の古武士八十余騎が之に続いて威風堂々さながら絵巻物そのままの偉観を呈し、蜿々十数町に亘る長蛇の列を作り、法螺貝、陣太鼓の音に勇み立つ軍馬を進めながら、青山通りを西に進み、明治神宮表参道より神宮橋に至り、神宮を遥拝し、代々木練兵場に繰りこんだが、場内外の観衆は固より、沿道に居列びし観衆も只アレヨアレヨの歓声でこれを見送り、青山通の如きも一時は非常な賑であった。斯くしてこの武装行列と馬匹博覧会の名は開会早々都人の耳朶に深く印せられたのである。本会の余興として馬に関連のある各地の民舞踊の代表的なものとして盛岡名物金山踊りと産馬カッポレ、相馬流れ山踊り、打球と駒踊りでありましたがこれらは、野馬追や流れ山に比すべくもあらず、臨席の総裁宮殿下におかれては、流れ山行事に殊の外御満悦遊ばされ、妃殿下共に御座を進められ流れ山の歌詞や行事につき会長にも御下問されました。
尚他の演芸は当日限りなのに反して、流れ山踊りのみは更に三日間延長出演の光栄に浴しました。此の催しに出場した人々は左記の通りでありました。
相馬郷土芸能振興会長岡和田甫外会員十九名

映画(全一巻)二一九米(
実写 野馬追行列
(高田龍鋒著「岡和田甫翁回想録 八十五路」)

昭和4年 活動写真「川中島」

2月24日 野馬追映画を俳優抜きで撮影甲越軍記の長尺物近く相馬で公開 民報

昭和5年 活動写真 霊山の顕家

霊山の顕家! 全六巻 六〇〇〇尺

出場騎馬武者五十騎 此の撮影費概算金四千弐百八拾円
主演 岡和田一男 吉井真佐子
参加者氏名
主演 岡和田一男
吉井真佐子
助演 佐藤 沢
(中略)
以上の如き豪華な顔ぶれにて原作池内相成 脚色監督高木喜智 撮影は松本保次郎にて使用した馬の数延二百余頭 出場参加人数延千二百名の大きに達したのである。
惜しむらくは此の画期的な記録映画のフィルムも台本も福島市役所の火災により焼失して仕舞ったことであります。今ここに当時の記録を元にして此の記事を認めるとき在りし日の様子が眼前に浮び出て来るのであって当時の参加者との会談も一度はと思考するも無理なことではないと?
(高田龍鋒著「岡和田甫翁回想録 八十五路」)

昭和5年
二宮尊徳翁の
住宅を保存
原町夜の森公園に
今月中移転に着手

相馬郡石神村役場旧庁舎はもと二宮尊徳翁の住宅をそのまま使用したのだが改築に伴ひ不要になったので二宮尊徳遺物保存会で此由緒ある建物を此まま破棄するを遺憾となしこれを利用して二に宮報徳殿を建設せんとの議起り付近十二ヶ町村長発起人となり費用の寄付募集をなしたるも建設敷地に行きなやみを生じ今日に至っていたがいよいよ敷地も夜の森公園東北隅と決定したるを以て今月中建築に着手する事になった

夜ノ森公園に 尊徳翁図書舘
昨日から工事に着手 落成は七月ごろ
相馬郡石神村は有名なる二宮尊徳先生の住宅は翁の令孫尊親先生より村役場として寄付されたものであつたが、去る昭和元年一月同村役場改築に際し地方有志者は該家屋を
買取り 報徳となし翁の遍述に係る報徳全書其他翁の遺物を陳列して図書館を造り永く先人の徳を伝ふるべく計画中であつた処、今般発起者の一人原ノ町の製糸家石川保次朗(註。郎の間違い)氏が其所有土地夜の森公園の北方、三段歩を寄付されたもので急遽原ノ町役場に発起人会を催し去る十八日の吉日を選んで土地縄量を行ひ愈々二十日より建立敷地の地ならし工事に着手したが来る
七月の相馬野馬追祭までには落成のはこびに至るべく野馬追当日は来観者の多かるべきを予想されている
(昭和5年5月22日友)

昭和7年5.14.報徳殿地ならし 写真

昭和7年1月28日
原町町長選挙けふ
相馬郡原町町長選挙は愈々二十八日行ふに決したが、町会議員大橋勝治氏の死去により同点岡和田甫氏の当選となったので候補者佐藤貫良氏の当選確実とみられる

1月31日
原町町長に門馬氏当選
数ヶ月に亘って紛争を極めた相馬郡原町町長選挙は二十八日町会を開き投票の結果
十一点 門馬直記
十一点 佐藤貫良

昭和7年5月 原町町会議員の推され その後当選四回 昭和二十二年五月に至る

友7.6.25.原町長選挙で議員
6.27.原町町長選挙で議員数名買収
7.12.支局開設一周年

昭和8年
民友8.1.6.
原町町長 詮衝を熟議 十日頃町会協議会
p8.1.26.甲冑行列と野馬追剣舞 今年の建国祭にも出してくれと東京から
(福島民報・昭和8年3月)
p8.3.7.原町の贈収賄事件 松永七之助 第一回公判
p8.3.21.二つの疑獄事件 原町不正事件
p8.3.7.原町長選挙公判 会議員の獲得に一千円ばらまく

全議員獲得に 一千圓ばらまく
贈賄の阿部町議すらすら陳述
原町々長選挙公判
二つの疑獄事件
二つの疑獄事件判決、昨年五月行はれた原町々長選挙に際し議員買収を行った前原町長松永七之助氏以下町議七名、前町議一名の涜職・・・・福島地方裁判所で公判審理中であつたが二十日午後両事件の被告は仲良くならんで・・・金裁判長から左の如く判決を言渡された

以下町議七名の中に、岡和田甫もいる。
民報の記事でみると。

原町不正事件
【贈賄】
懲役五月(二年間執行猶予)
阿部 市助
同四ヶ月      松永七之助
【収賄】
懲役五ヶ月(追徴金百円)
木幡 忠太
同五ヶ月(同二百五十円)
佐藤 貫良
同四ヶ月(同百五十円)
岡和田 甫
同四ヶ月(同百円) 木幡  清
同三ヶ月(同五十円)山本 伊助
同二ヶ月(同二年間執行猶予)
木幡 徳松
同三ヶ月(二年間執行有余追徴金
五十円)       佐藤 儀平

友8.5.26.原町選挙後町長を選挙
p8.5.30.お国自慢の流れ山踊り
友8.7.10.相馬野馬追祭二遍返情緒
友8.12.29.原町の涜職事件 松永七之助 木幡忠太公判 執行猶予
昭和9年は、東北の農村は大凶作で、娘身売り、農家の借金累積、欠食児童、行き倒れ自殺、極寒の惨状などの悲惨なニュースが新聞紙面にあふれている。この年の夏は異常に寒かった。

昭和9年 民友 野馬追武者が富士登山
岡田首相に面会す 写真
8.16.
8.17.
8.18.民友 岡田首相に見参の 相馬野馬追鎧武者
昨報 相馬名物野馬追「野馬追振興会」会員十三名は時節柄非常時局に大和男の児の威風を示すべく甲冑姿で騎馬にまたがり富士登山を行ひ国家安泰武運長久を祈るため十六日午前七時五十二分上野駅着直に馬ならぬバスで宮城前に至り宮城を遥拝して首相官邸に見参、岡田首相を訪問してから法螺貝を吹き、新宿駅より富士を目指し出発した(写真は一行の武運長久を祈る岡田首相)

8.18.p富士登山
相馬民謡とおどりの夕、新開座で
二宮報徳会 維持資金造成
今夏甲冑競馬の富士登山をなして名声を博しまた毎夏福島市の納涼大会に出演してお馴染みの相馬野馬追振興会、相馬郷土芸術振興会の一行は二宮報徳会維持資金造成のため相馬流れ山踊りの巡回公演を行ひ既に会津、県南方部を終り各地共非常な盛会であった

友9.10.1.流れ山踊り公演会 二日から
.11.1.9報徳十訓 岡和田甫 「御仕法和楽」を作詞 石神に二宮神社 東京日日
p9.10.1.二宮報徳会 推進資金造成 相馬民謡踊りの会夕 郷土芸術の華ひらく二、三日新開座で
p9.10.3.相馬民謡の夕 今夕
13.5.27.日露戦争に従軍した岡和田甫(一水)
14.9.22.岡和田コメント 東京日日

15.1.9.岡和田甫、とみの
15.12.22.原町の隣組
第九区 西原 岡和田甫 七一

18.3.13. 原町に慰問隣組 愛馬日に郷土芸術 岡和田甫氏一行

相馬の郷土芸術東京で

19年
《動議》
海軍一等兵曹長中野磐雄君戰死ニ就テ町會ニ於テ弔慰ヲ表シタキ旨動議アリ
全員之レニ賛成セルヲ以テ議長ハ左ノ三名ヲ代表トシテ推薦ス
弔慰代表 岡和田 甫
松浦 誠寿
門馬直次郎
昭和22.1.5.
岡和田甫広告

昭和24年5月 二宮報徳会結成仝時に会長に推さる

26.7.11. 民謡の国 相馬 相馬郷土芸術振興会発行
新町98番地 相馬流山踊り 岡和田一男 相馬発祥の舞

28.8.26.夕刊 野馬追富士に登る

34.8.23. 流れ山など披露 御殿場

38.9.1. 史跡ハイク二宮報徳殿

昭和42年11月17日 相馬郷土芸能振興会之を贈る

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