浪江町の高瀬川渓谷に、大木惇夫詩碑がある。
かれが東京の空襲をおそれて田舎の浪江町に疎開していたからだが、ひところの軍歌の神の盛名を慕った町民らが建てた。
松本博之は、文章で、彼大木を顕彰しようとしていた。
有名詩人ではあったが、戦争詩人の彼の名誉を守り、これを浪江の町民に愛されていた人物として顕彰する詩碑を広く世に知らしめようという行為に、軍国主義への愛着と同視されるとは考えることはなかったのか。
太平洋戦争の初期の戦勝気分は、翌年の昭和17年のジャワ作戦のあたりまではまだ意気盛んだった。文学報国会に束ねられた人気作詞家の大木敦夫も、南方の進出前線の視察に派遣された。この時、原町生まれの宝玉義信さんは同盟通信の記者に就職したばかりだったが、このジャワ作戦に派遣された同じ輸送船で大木敦夫に会っている。
「雲の上の人だった」有名作詞家が、すぐそばで従軍している。のちにインドネシアは米英によって石油の供給を断ち切られたため、南方の石油を奪取するため「空の神兵」などで知られるような日本軍空挺部隊のパレンバンの落下傘部隊の活躍などが喧伝されるが、従軍記者団員は、海の機雷や潜水艦の標的となって、実戦の緊張感の船底で、死を覚悟するほどの臨戦体験をした。新人記者だろうが、大物作家が、同じ板一枚下は地獄だ。
宝玉は、生前、二度このときの経験を私に語っている。
有名詩人大木が、この船底でどんなだったか、強烈な記憶が忘れられない、という。

たしかに大木さんは勇敢にして愛国心を鼓舞する多くの軍歌を作った人ではありますが、じっさいの従軍記者として南方に派遣されたときの人間性というか、素顔の大木さんを見た時の印象は、信じられないものでした。
水雷の音が轟音を立てるたびに、大型の輸送船はぐらぐらと揺れた。大木は床につっぷして頭をかかてぶるぶる震えていたのだ。
これが、あの雄渾な日本男児の決然たる姿を雄々しく描いてきた日本の代表的詩人の姿なのか、と。

宝玉は、唯一の自叙伝にしるしていた。
よほど印象的な情景だったのだろう。
二度同じエピソードをフルサイズで、宝玉氏から私は聞いている。
最初に聞いたのは、原町市栄町のカトレアという軽食喫茶店で、そのときの紅茶の味もテーブルクロスの模様まで鮮やかに記憶している。
ジャワ近海の輸送船が、米英の艦艇の砲撃に揺れ響く船底で、あまりの怯懦な姿に驚く若い同盟記者の宝玉さんの驚きの表情まで、セットで刻み付けられた記憶として。

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