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石川正義について

石川正義について 子息石川研三による手記から。
双葉郡室原村(現在の浪江町)に石川粂之助、キワの長男として明治32年11月14日生まれる。
田舎政治家の例に漏れず、多大な借金があった。その整理のためにほとんどの財産を売り貧乏のどん底に陥った。向学心に燃えていた父は進学どころの話ではなかった。高等科二年を卒業して、母を助け、幼い二人の弟のために三反百姓になった。
三反百姓では生活が容易でなく、馬を使って葛尾あたりから木炭を買い、浪江の町に売りに行く仕事もやったと聞いている。また、その合間に「中学講義録」で勉強し相当の学力をつけたらしい。徴兵検査の時の面接で試験官がその博識に感嘆したという話も残っている。高等科の頃は「磐城の学友」に投稿していた。さらに講談社の論文募集に応募し、第一位になったというが、その論文も家にはない。
昭和二十二年八月私の家が類焼した際に、棟が焼け落ちるまで時間があったので村人達に蔵書類はほとんど出してもらったが、若き日の父の作品類はほとんど無くなってしまった。
双葉中学校の時の作文ノートの中に、父の文章が七編ほど残っていた。若き日の父をしのぶためにその文章を紹介したいと思う。
(略)
評。卒業後の文章として余程の健筆なり。大町桂月以上になるも亦遠くはあるまじ。

父一石川正義」の足跡
○夢多き青年時代(一)
「大町桂月以上になるも亦遠くはあるまじ」と評された父は、母、弟二人のいる小農家を支える為に十九歳で同じ部落の高木家より嫁を迎える。それが私の今は亡き母シモである。
当時青年の燃える心を発表する弁論大会が各地で催された。父は苅野青年会代表として郡大会で優勝、更に浜三郡大会でも優勝している。その時の優勝花輪を前にした和服姿の父の写真が残っている。
更に講談社発行の雑誌「雄弁」に論文を投稿し全国で一位になった。だがそのテーマや内容を知る人は既にいない。健在している叔父(正信)が当時大阪にいたので、その新聞を送ってよこしたが内容は忘れたと残念がっていた。又一ての頃農村青年機関紙「耕す声」
を発行したが、その雑誌もない。当時二高の学生であった後の静岡大教授で、憲法学者としても有名になった小高町出身の鈴木安蔵先生なら当時の事を詳しく知っている筈である。二高時代、室原の藁葺屋根の私の家に来て農村問題について議論していたからなの
である。
父の青年の情熱は更に燃え、郷土出身の政客「山田忠正」先生の門をたたく事になるのであった。
山田忠正先生とは如何なる人か?
わが家に今、山田忠正著の「愛の強震」と言う分厚い本と「一国軍営」と言う本があるがその経歴は書いてない。だが昭和の初期浜三郡から衆議院選に立侯補、次点で惜敗した人だから相当の人だったらしい。又その山田忠正先生の門下生(書生)に有名な赤尾敏がいて一緒に選挙を応援したと言うから驚きである。又その赤尾敏夫人が山田忠正先生の娘さんのふみえさんである事も判った。
それに山田忠正先生の父山田忠則氏が浪江町立野の元苅野村長猪狩忠朗氏の実弟である事も判り更にぴっくりしたのであった。
その猪狩家の現当主が小生の一級下の猪狩栄氏(元村議・現中立野区長)である。
一か前に立野に来た事など、いろいろと話し、聞いて来た。然し山田忠正先生について、私が赤尾ふみえさんにその旨を書きお願いした所、次のようなお便りをいただいたので山田忠正先生を知る為にそれを載せる事にする
○赤尾ふみえさんのお便り
御手紙及びコピー文章を落手いたしました。
正義氏に貴方のような長男がおられて、今の御活躍されておられる事は喜ばしく、頼しく存じます。今後共の御活躍と御多幸を祈り申し上げます。
さて、父山田忠正の事ですが、その親は猪狩忠朋氏の末弟として忠則と申しますか兵役年に甲種合格、朝鮮視察団(十数名聞く)に選ばれ、後、分家して結婚、上京
忠正以下四名の男子があり、忠正十五.六、頃より東京在住となりました。
父忠正は上京以前は相馬の殿様の御子息御相手として数年お邸に住み込みお勤めしたそうです。後年その御子息御結婚(尾崎氏嬢雪香さま)の際は招待されました。東京となってから、二十三歳で母(八重)と結婚。
石川中学校の剣道師範、東京刑務所の看守を務めた後、三十歳位から目分の仕事をはじめ、母に下宿屋をさせながら、政治活動に入り月刊雑誌「改造世界」発行、自分の思想を朝野に訴えました。その頃、尾崎士郎、矢部周、奥むめお女史等が下宿に人り込み、父を囲み文談、政談の花を咲かせたのはよいが、間もなく下宿は赤字で閉口した。戦争で疎開するまで、二十年余り、本郷区駒込蓬来町十八番地の小さいながら門・庭付きの家に住み、私共八人の子供を育てた。東京で各界の名士達との交友もでき、当時の永田秀次郎市長、丸山鶴吉警視総監等と親しく交流し、日比谷公園近くの「幸ビル」に「大衆自治社」後に「東京公論社」と改名、事務所を持ち「大衆自治」及び「東京公論」なる月刊誌を発行大いに活躍した。福島県より上京した人々が、その頃多かったので正義氏も大正十年以前に
こられたと思います。紹介して連れて来たのは父の遠縁に当る佐藤重信(戦後、幾世橋に居り、故人)でした。父は教育勅語に示されて居る通りの清廉、純情、温厚な努力家故先輩、後輩に好かれました。わが父ながら、あれ程正しく立派な性格で、しかも適当にユーモアのある好ましい男性を、七十五歳の私には今まで見た事はありません。
大正十二年の関東大震災まで、正義氏はわが家で家族同様に暮し、氏は浅草オペラ等を好み、私と妹を連れてオペラ見物をしたこともありました。在京中は勿論、父の仕事を手伝ってくれ、時には私共子供についての参考意見を求められていた事も覚えております。
帰郷された後、父が福島県第三区より衆識院に立候補、猪狩氏宅を事務所に戦い、次点で惜敗した時も、勿論正義氏は先頭に立ち、働いてくれたと聞きました。
父と石川正義氏との関係は欲得全く抜きの人間と人間の親しい師弟関係でした。今日そう言う人間関係は殆んど見られない悪い世の中になったと思います。
後日尾崎士郎の「人生劇場」に羽織・袴、山高帽の愉快な下宿屋の親爺として登場したのは若き日の父忠正の事であった。以上
このお便りからも判るように山田忠正氏は余程の衆望家だった事が判る。
山田忠正氏が衆議院で当選していれば父の人生のプログラムも相当変わっていたであろうと思うと人生航路の不思議さを感ぜずにはいられないのである。わが家の古いアルバムに有名な政治家永井柳太郎氏が浪江に来られた時、浪江駅前で撮った写真があり、支持者
何十人の顔の中に忠正先生、若き日の父の姿もある。忠正先生の縁で来られたと言う。
つづく

連載 父「石川正義」の足跡(一五)
◎氏家代議士の誕生に活躍
前号で詳述した父の青年期の師と仰ぐ「山田忠正」氏が衆議院選に立侯補したのが、昭和のはじめだから二十歳代で応援弁士として活躍した事になる。山田先生の選挙事務所は旧苅野村立野の猪狩氏宅だったので東京からの応援者の中に書生仲間だった赤尾敏もいたし、それに地元の有力者の応援で次点にまで漕きつけたのだから大変な選挙であった事が推察できるのである。更に幾世橋出身で県会議員や、福島一区から代議士になり、戦後福島市長にもなった釘本衛雄氏の為にも民政党の若手党員として応援し、大いに活躍していたものと思う。
昭和四年三十歳の時苅野村議会議員となり二期八年間若手議員として村政に新風を入れたものと思う。私が小学校の頃、新道作りの救済工事の担当者として人夫に支払う硬貨のいっぱい入った布袋を涛っている姿を私は覚えているのである。

しんみち
新道とは室原から大堀に行く現在の道路の以前の道の事である。
この道路工事は私が小学校一年の頃は一米巾位の歩くだけの道を車の通れる四米か五米にする改修工事であった。当時は土運びはトロッコを用い多くの人夫が必要だった。
村議会議員として室原-大堀街道改修は重要な問題であったと思う。私も現在行政区長を経験し、又農地基盤整備委員会(現在)として一、二の無理解者には閉口するのだが、当時も道路建設に反対する矢沢末次郎氏(その家系は絶えているので敢えて実名をあげる)が父を告訴したと言うのであり、新道が立派にできたら一番早く通ったという部落の人の語り草になっていたという事も聞くのである。
昭和五年衆院選に津島村(浪江町津島)の氏家清氏が立候補した。氏家清氏については後述するが、その氏家清氏の衆院選の選挙事務長が若冠三十一歳の苅野村議の「石川正義」であったと言うから衆目の認める政治力の持主だと言う事を物語るものと思う。
氏家清氏は見事に当選し、更に昭和十一年にも衆院に当選しているから代議士二期務めた事になる。浪江町からは代議士になったのは有名な高瀬の愛沢寧堅氏が明治の頃五回当選しているから、当時北双からは二人目の代議士の誕生であり、双葉郡としても政治的に相当の評価を受けたものと思う。
その氏家代議士誕生の主役を演じた父としても大きな満足感を味わったものと思う。
更に浪江町の志賀赴氏が民政党より県会議員を二期務め県議会副議長までやっているのでその当選にも尽力した事になる。
父は苅野村議二期の後読売新聞の記者を何年かやっているので持てる文才を存分に発揮できたものと思う。時は漸次戦時色が濃くなり昭和十六年太平洋戦争開始の頃は平和貨物株式会杜の常務としての仕事に当り家計をはじめ私の学費の為に相当苦労したものと思う。
又反面大正十四年より苅野小学校同窓会副会長(会長は小学校長)として終戦の年までその役にあった記録がある。
○父の特に敬愛した先輩政治家
(現浪江町出身者のみ)
氏家清(津島) 慶応二年生れ昭和十二年没す。
釘本衛雄 幾世橋 明治十三年生まれ昭和二十四年没す

昭和三十四年に訪伯した父はその翌年、昭和三十五年四月に浪江町長選に立候補、激戦であったが、相手候補を二千票離して当選し、赤字再建団体の「浪江町」の再建に心血を注ぐことになる。
浪江日立化成の誘致などに尽くし、二期つとめて引退。

郷土史の研究
父が何歳の頃から郷土史に興味を持ったかはいまでも知る由もない。だが昭和三十年に北双史談会を創設、会長として、標葉郷土文献集、をはじめとして標葉氏の研究を深め、東京大学の佐藤進一先生のご指導により「五郡一揆契状」を明らかにし、当時標葉氏は奥州豪族の実力者であったことを発見し世に紹介した。
昭和四十三年「中世期における標葉氏の研究」を自費出版。
四十四年には福島県史の中の「中世期の標葉・楢葉」の史実も執筆した。

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