原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

松本孫右衛門新聞資料集成

松本孫右衛門関係新聞資料集成

後代の松本醸造の主人松本欣一氏存命中にインタビューした文章がある。
(昭和51年「郷土の先行者たち」相双新報)
「孫右衛門は、演説は上手ではありませんでしたよ。寡黙で、威厳があって、子供の私などは、こわくて近づけなかった。」
松本欣一氏はこう語る。
「喋るときはとつとつでしたな。人に絶対頭を下げたことがない。私は頭を下げたのを見たことがありません。けれども、まあ、当時はそれで良かったんですねえ。人に冷徹な感じを与えたかも知れません。誤解されやすい性格だったんですかね。」
福島民報は現在まで存続する福島県内で最古の新聞であるが、創刊当時は経営困難のためたえず廃刊の危機に見舞われていた。これを救ったのが旧相馬藩(南新田村)の名家に生まれた松本孫右衛門だ。代々襲名する名で、藩主から功により特別に酒造業を許された家柄。松本仙蔵を父に明治六年生まれ。幼名を碩蔵といった。東京物理学校に学んだが、父の死去により帰郷。浜通り地方は常磐鉄道開設の景気に湧いていた。土木業に開眼して鉄道工事で成功。その財力をみこまれ請われて倒産寸前の民報社長になり、見事に立て直した。明治三二年に主幹として迎えられ、三三年に二代目社長に就任。個人経営とし、同郷の後輩でのちの原町町長松本良七(亀井文夫監督の父親)を主幹とした。自由党政治機関紙であった民報を商業紙に改革した。無料配布していた株主からも購読料をとり、県報を請け負って刷り込むなどの営業努力によって収益を上げて実績の実をあげ、その手腕が評価された。三星炭坑社長などの事業家と政治家の二足の草鞋で成功し、町会議員・県会議員をつとめ、政友会が旗揚げすると代議士となり、自分の子分を応援して交互に出馬するなど気配りの人だった。政友会院内総務までつとめ、昭和二十三年死去
(「政経東北」掲載「相双の新聞人列伝」より)

代議士松本孫右衛門の誕生は、明治27年の祖父の死去による襲名の時だ

○松本孫衛門氏逝く
相馬原町の同翁は七十三歳の高寿を保ち病を以て去る十五日不帰の客となれり葬儀の際は会葬者無慮千五百余名にして実に近来無比の盛大を見きと云ふ翁姓慈悲にして温良の君子なりしかば生前の事業上欽慕すべきもの頗る多く幾度か米りんを開きて貧民をきゅう血せしが如き公共の事業に夥多の出金を吝まざりしが如き又自費を以て原町種痘施行所を設け無料を以て種痘を施したる者三万余人に及び為に往年天然痘流行の際も一人の患者も出さざりきと而して翁は又熱心なる自由主義者なるを以て行方地方の自由党の隆盛今日あるを致せしも翁の力亦渺少なからずと云ふ過半選挙の際の如き身病褥にありて言語動作の不自由なるも其甥良七孫碩蔵の両氏が勝報を齎らしたる時の如きは覚へず欣然歓呼したりと云ふ而て此翁今や無し惜い哉因に記す翁ハ行方民会の幹事松本碩蔵氏の祖父松本良七氏の伯父にして二氏が自由党の為に尽力するや翁常に其後ろ盾となりて大に力あり行方の地を過ぐるものハ自由党の松本、野心派の油屋連なるものを知らざるものなく翁の至誠ハ独り郡民の欽慕するのみならず反対派の油屋連と雖も常に敬服し居れりとぞ
民報 明治27年4月19日

明治29.2.23.民報
〇行方郡県会候補者  同郡ハ自由党の勢力強大にして到底他派の競争し得へきにあらされは自由党に於ても未た候補者の選定を為ざされと多分松木(松本)良七、鈴木重郎治、藤田かく蔵、紺屋悦道等四氏の中より挙ぐる事ならん元来松本氏ハ同郡自由党の領袖として重せらるる人なれハ名利を逐ふの人にあらず 是迄も候補者たるを厭ひ如何なる勧誘あるも固持して応せさりしか地方党員の是非に氏をして其局に当らしめんとの希望強ければ多分承諾せらるる可し又行方民会幹事松本孫右エ門氏を推すものあれとも氏は年齢尚ほ若く被選人たるの資格なけれ衆望あるも致方なしとなり

明治三十一年、原町町会議員になったのは二十六歳のとき、同年、福島県会議員となり翌三十二年には、経営的に廃刊を目の前にしていた福島民報から白羽の矢を立てられ、同紙の主幹となり、福島自由党の政党機関紙「福島民報」の二千号記念を機に経営一切を仕切る。三十三年には福島民報の二代目社長となり、個人経営に改め、政友会機関紙とし主幹には原町の後輩松本良七を当てた。大正七年一月まで務めた。(福島県史)

福島民報百年史によると、
「三十年暮を迎えて、同社の困窮の度合はますます厳しくなってきた。「民報社がつぶれる」という噂が、噂だけに止まらない状況になってきた。資金的に大きな援助をしてくれる人が必要になってきた。二十八年から第三代の主筆を務めている石川欣四郎が白羽の矢を立てたのは、原町の少壮実業家・松本孫右衛門だった。松本は若いが太っ腹で実業の酒造業から建設業にも進出し、実業家として名が売れ出したところだった。民報を頼むのは松本をおいて他にはいない-と考えた石川は、原町の松本の自宅を訪ねて直接談判した。
松本は松本醸造の第十四代当主だが、明治六年一月生まれで、当時まだ二十四歳の若さだった。東京物理学校に学んだが、父親の急死で帰郷して家業の酒造、質屋業を継いだのが四年前。建設業の仕事にも手を伸ばし、ちょうど始まった常磐線建設に当たっては平以北の路線の枕木納入を一手に引き受け、原町以北の駅舎建設を請け負っていた。常磐線枕木の納入は赤字の仕事だったが、「こちらの損は貴社の得になるから結構です」と語って日本鉄道の曾我社長を感激させたという。
注。曾我というのは、建設当時の日本鉄道小野社長のあと
の三十一年以降の社長である。
石川の説得に初めは渋った松本だが、ついに福島民報の経営責任者となることを承諾した。三十一年の春のことである。小笠原貞信社長はそのまま、松本は主幹として経営に携わることになった。
松本が実質社長に就任したことで、会社経営は収入を増やすために、株主からも新聞購読料を納めてもらうことにした。」
創刊五周年の三十年八月は紙齢が千五百号になる直前だったが、当時の合言葉は「二千号のときに二千部になったら、みんなにうなぎを奮発するぞ」というものだった。
河野広中の自由党脱党で、福島の政界は真っ二つに割れ、両派の間で政党の武器である機関紙を争奪し合う状況が出現し民報解散論などが出た。いわゆる民報騒動である。「百年史」にいわく。
「一方から解散論が持ち出されてきた。これも解散は名目だけで、僕を追い出そうというのが主眼に置かれた運動である。僕との間に連日にわたって交渉が行われるが、少しも事態は好転しない。それどころか民報社内の同人諸君は僕と進退を共にしよう、そう簡単に彼らの手に渡せるものか-という意気込みで、いざとなれば機械を逆に回して発行不能にしてやろう。でなければ、僕の債権で差し押さえて半年くらいは休刊させようというまでに固い決意で対抗した。」と孫右衛門はのちに回想している。(昭和11年6月「一万五千号記念号」)

佐藤民宝「福島県新聞史」によれば「松本は小松省三、原田重衛に次ぐ三代目の主筆であったが石射文五郎、根本要七、鈴木重郎治、刈宿仲衛、中目猪三郎、伊藤弥七、大河原治一郎、唐橋左源次らを語って、分離派であった社経営陣を追出し、非分離派の同志で社を支配、自ら社長に就任した」とある。
「解散を唱える平島松尾らも金策を試み、解散後の福島民報を続刊しようとしたが負債を処理するだけの金額には到底及ばなかった。結局松本が一人で処理することになった。
福島民報合資会社の解散を決める株主総会が二度にわたり開かれ、三十二年九月二十二日、解散が決まった。同月二十二日に合資会社の解散登記を済ませ、福島民報は松本の個人経営で再スタートを切ることになった。河野広中の自由党脱党から二年半が経過していた。松本は十月一日、第二代の社長に就任した。創刊間もない福島民報社を見舞った大きな危機はようやく回避された」とある。
佐藤民宝の記述によると「松本の就任祝賀は群喜館という料亭で行ったが、牛鍋に酒二本付。飯も出て会費二十銭であった」という。
孫右衛門は思わぬ事態から民報社の社長となって新聞事業の経営に采配をふるう。
「平島松尾は松本が主幹に就任するのと前後して、本社を退社していた。平島は退社後の三十一年三月に行われた第五回総選挙に出馬したが」自由党の脱党騒ぎが響いて落選。「やはり機関紙が必要だ」と再び新聞発行を計画。こうして創刊されたのが「福島民友新聞」である。つまり民友はこの時点から創刊百年にはならない。別な新聞を買収して、これを引き継ぐ形にして号数を稼いだのである。
「松本孫右衛門が主幹として社の実質責任者となった明治三十一年春、社屋の移転問題が具体化した」「見付かったのが、駅前通りの寄席、万歳館だった。万歳館は本社創刊と同じ明治二十五年に開業し、芝居や福島で最初の活動写真も上演していた」「交渉したが、新聞社は金回り良くないから貸したくない、資産のある実業家なら貸してもいい、という返事。そこで、石川らは松本孫衛門の名前を出して、ようやくOKを取り付けた。松本の信用はたいしたものだった」
「明治三十二年五月二日、創刊二千号を迎え、十ページの記念号を発行した。また、県内の旧藩主五人の写真を印刷して付録として発行した。本紙で写真ものを発行したのは最初だった」「記念号には、主幹の松本孫右衛門が「二千号の序」を書いている。前年、経営責任者に就任した松本主幹は「予は
新聞事業にいささかの経歴は有せず、事情は昨春、予をして福島民報社の社業を幹せしむこととはなれり」という書き出しで、次のように「覚悟」のほどを書いている。
事情は福島民報社をしてある狭き範囲より圏外に転歩せしむるに至れり。換言すれば、局部の機関新聞たりし福島民報は爾来不偏不党の態度を以てその主義と抱負とに忠実なるを得せしむに至れり。
予は現今の事情がよく福島民報をして新聞紙たるの真価を発揚するに足らしむべきを喜ぶと同時に、さらに微力を傾注して斯業に当らんことを期するものなり」
三十二年三月、県会議員の選挙が行われた。松本は初めての県議選に挑戦、見事初陣を飾った。このとき松本は二十六歳二ヶ月。これは今でも破られない県議選当選の最年少記録となっている。この前年には原町町議に満二十五歳で当選、これも最年少だった。」
明治三十六年、自由党は政友会と名を改めた。この年、孫右衛門は三十一歳で衆議院議員に立候補し当選。党勢拡大の尽力と実力とが、認められて政友会福島県支部長に推された。代議士を通算四期つとめ(断続的に明治三十六年[第九回]、明治四十五年[第十一回]、大正九年[第十四回]、昭和三年[第十六回])総裁が伊藤博文から西園寺総裁に移った時期に幹事となり、政党にとって重要な職責である総務を務めた。昭和時代になってからは、顧問として重鎮の役割を担った。
中央政界で総務にたずさわりながら、福島に帰ることも多かった。
「面倒見はよかったです。支持者には小遣いをくれてやっていたしね」と松本欣一氏。
「カミソリ孫右衛門と呼ばれて、切れ者だったようですが反発もあったようです」
上京していた折り、孫右衛門は御徒町に下宿して住んでいたが、原町からの客が泊まり宿にしていた上野駅前の広島屋という旅館のご主人に見込まれて、その娘と結婚。
書画を集めるのが趣味で、と言うより、政治家の常で貰い物が多かった。人の対応は煙草を吸ったままだ。と言うよりは煙草を放す暇がなかった。今でいうヘビースモーカーである。吸う煙草は朝日だけ。いつも羽織とはかま姿であった。
体は小柄で、おおむね健康。
「楽観して引き締まれ」というのがモットーであった。
表面的には春風駘蕩として、内部的に厳しい。合理主義的で情に流されない。人情がなかったわけではなかったけれども、むしろ親族のなかで孫右衛門の援助を受けぬ者はなかった、と言う。考え方は常識的だが、甘えがない。つまり戦前の日本人の、理想像ないしは典型であったと言える。
数字には明るかった。日米開戦については批判的で、昭和十六年十一月に松本欣一氏に召集令状が届いて挨拶に上京すると「東条などに任せておいたら。どうなることか分かったものではない」とアメリカの国力を高く評価。これもアメリカの産業と国力を数字で把握していたかも知れない。
昭和初期、世界的不況の中で、福島信用銀行原町支店が潰れ、この時は最大の辛苦を嘗めた。私財をつぎこんで整理にあたり、しばらくは大変な苦労を味わった。
日独戦争の功で勲三等瑞宝章。御大典にも参列した。これら苦渋と栄光をともに体験して晩年は政界を引退。終戦後の昭和二十三年九月六日、他界した。
孫右衛門の逸話は多いが、原町の自宅から東京へ帰る時に、原ノ町駅に停まっていた急行列車を「俺が行くまで待たせておけ」と命じた、という話などもあり、これなどはちょっとどうかと思う。後代の人が好んで尾鰭をつけて喋る類のもののようだ。

民報は、明治33年正月号のトップに
社長 本孫右衛門
主幹 松本良七

とある。ふたりとも立派な政友会の幹部になった。自由党の強烈な後援者であった先代孫衛門の遺徳である。

明治33年6月12日民報広告
是までの居処手狭につき左の処へ移転す
福島町早稲町十八番地 松本良七

明治33年9月16日 民報
観風雑記 久保小蘇「五」
良七氏を其邸に訪へば偶座に星、大島の二氏あり良七氏の厳父宗右エ門氏手ずから茗を汲んで客に薦めつつ大に地方の時事を談じたりしが

明治34年2.16.民報
〇佐藤町長の祖父病死 相馬郡原ノ町々長佐藤徳輔氏の祖父太之助翁は予て病気中の由なりしが薬石効なく去る十三日午后十二時死去したりと云ふ

明治34年
4月19日 奇特なる人 岡重治郎 真野
5月11日 孫右衛門転居 神田区松永町廿三番地
7月11日
目黒翁逝く 八日
11月28日 孫右衛門 移転特別広告 下谷区車坂町八十番地へ
10月1日 郡会議員補欠選挙 原町松本良七当選

明治43年1月21日民報
第四期営業報告
貸借対照表
相馬機業株式会社
取締役社長 佐藤太之助
取締役 今村忠八
専務取締役 木幡 清
取締役支配人 渋佐寿郎
右検査候処相違無之候也
監査役 門馬昌蔵
監査役 星栄
相談役 松本孫右衛門
明治43年7月 〇相馬の野馬追(二)前景気と諸準備
松本前代議士来観  前代議士松本孫右衛門氏は野馬追祭典観覧の為め七日来原せられたり

明治45年福島新聞
4.27. 戦雲、漸く動く 高松豊次郎 松本孫右衛門 佐藤富十郎
5.4. 門馬尚経氏の態度
高松氏を訪ふ 木戸の演説会 半谷氏の立ち往生
半谷氏の社会政策 天野蒼郊 中村 5.10.
選挙民怒る 高松派の活動 自動車飛鳥の如し 浜街道場裏の塵 5.11
5.12.佐藤富十郎とは何んな人か
5.14.高松氏と社会主義 石射文五郎

大正2年 霜害視察
松本孫右衛門

大正3年 福島県人名録
松本孫右衛門 下谷清水町

大正8年民報
6.4. 湯本鉱業所 三ツ星炭坑と称し元代議士 松本孫右衛門を社長に
8.31.原の町大演説会 小高座で立憲政友青年会 29日原町にのりこみ
9.18. 浪江町の演説会

大正9年民報
3.14. 相双の(十)政憲両派の勢力(十)第十区相馬双葉両郡 松本孫右衛門無競争か
4.22. 松本孫右衛門の決意
4.22. 普選熱
4.25. 県議会選挙は・・
4.26. 松本氏絶対優勢
4.28. 松本氏応援演説会 中村 鹿島 原町 みな空前の盛況
4.29. 熱弁 大成功

2.27 松本氏 写真
2.28 松本氏勝負歴然 5.6. 松本氏区内歴訪
5.8. 松本派の山中遊説大成功
5.13. 松本氏は相馬で大勝
民友 5.5.佐藤氏後援会演舌会浪江町

大正10年民報
3.28. 原町無電局からの第一信は野田逓相が
4.27. 鹿島憲政演説 鹿島座で政蔵ら 原町議選挙
5.9. 形勢混沌 原町町議戦
2.27 原町の安全候補
2.28 原町安全圏内の人
2.29  中村の理想破壊
11.5. 原敬暗殺
11.9. 原町を過ぐ偉人の霊
12.12. 二ノ宮尊親 東京移住に決す
民友
12.23. 政友会の演説会には県下の劇場は貸さぬ

 

大正14年福島新聞

11.4.松本氏のサイサンの勧告も拒絶 釘本議長と面会失敗 政友会紛擾 松本君が俺へ無理云ふ資格はないヨ スズキ議長会見の内容を語る

昭和3年 福島毎日
6.30.松本氏の買収行為遂に尻尾を出す

昭和8年民報
1.1.  松本孫右衛門 広告 1.4. 松本孫右衛門 広告 下谷区谷中清水町

昭和11年2月9日 東京日日
鹿を追ふ人々⑦ 燃える満々の闘志 三区 政友
松本孫右衛門氏 写真
松本氏は生粋の相馬っ子で「押しで行く松孫」とまでいはれるほど猪突する政治家、東京物理学校卒業後廿歳の弱冠にして早くも自由党に身を投じ、時の長老目黒重信翁に師事して地方政界に活躍明治三十年公民権を得るや「待ってゐた」とばかりに県会議員に名乗りをあげて見ん事鹿を中原に射止めたのが初舞台で、時の自由党の重鎮河野広中翁とは交友殊の外厚かったが、大隈候の率ゆる改進党に河野氏が走るに及んで政党人の節操を痛烈にののしり断然袂を分つたのも有名な語り草とされてゐる、それほど氏は意志の強固な人
〇・・・・〇
明治三十六年衆議院議員当選後爾来鹿を追ふこと四回、うち三回金的を射止めて中央政界に活躍し政友会総務に二回も就任、党の内外に重きをなしたものであつた、目下は東京株式取引所理事、横浜取引所監査役その他二、三の会社重役をかねてゐる
〇・・・・・〇
政見は蚕業の振興と民衆の権利綱領そのものであるが、趣味は囲碁、弱いのか強いのか相手本位に打つのでいまだかつてその力量の判定のつかないといふところが面白く書画骨董の鑑識眼に至ってはまさに玄人の域に達してゐる、本年六十四歳夫人きささん(五六)の中には二男五女の子福者、長男一郎氏(三四)は平製氷会社の専務、次男敬次郎氏(三二)は満鉄社員とそれぞれ活躍目下四女百合子さん(二三)五女照子さん(二〇)と東京下谷区清水町一二に和やかな居を構へてゐる(写真は松本孫右衛門氏)
候補者一覧

相馬郡原町伊勢屋旅館(七二)紺野盛一

2.27 相馬公葬儀に代表上京

6. 一万五千号記念 松本孫右衛門
6.7.  松本孫右衛門ら民報幹部 写真

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