原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

明治の小高通信

明治の小高通信

 311で中断されていた常磐線が6年ぶりに復活され試験運転を小高駅で見た老人が涙で迎えたと報道された。
 今年の野馬追には小高神社境内での野馬掛け祭事も復活し、いま小高の住民じしんの手で前夜の火の祭りの準備が行われている。
 県立図書館のマイクロフィルムを調べていたら、百年前の明治35年7月の福島民友新聞に、その起源を発見した。
 「雨の相馬」という記事で稚葉生という記者が実業家半谷清寿から野馬掛けと火の祭りについて説明されて百年後の読者にメッセージを残した。
 「時に半谷氏来り、自己の経歴談と実業奨励の苦心談、野馬追復興の演説会をなせし事等を語る。これ後世小高町の町史を編むものあらんには、その談話こそ確に其一頁を染むるものならん」と記事にある。
 明治29年から観光の一助として、原町の雲雀が原から帰った騎馬たちを宵闇に二万個のカンテラの篝火で迎えたと伝えられるが、これまで地元でも詳細が不明だった。
 民友記者の半谷氏インタビューは、南相馬の歴史を百年前に予言していたことを発見し、ぜひ知らせたい。

●行方郡小高村通信  農桑の事、蚕児発生の期も間近くなりたれハ養蚕家ハいずれも準備に忙がハしき有様なり桑芽ハ既に萌発し蚕児の養料に供し得べき程になれり、種播きハ両三日前に終了せり麦作は近郷近在何れも不作の模様なり
○常磐線鉄道測量同鉄道布設測量の為め鉄道庁測量課技士小郷 才吉市外に名ハ目下当村小松屋方に滞在測量中にして村内有志者ハ更るがわる案内を為し居れり
明治26年4月28日民報

○ 相馬地方の製糸
近来相馬地方製糸業の発達せし事、実に驚くべきものあり吾人は之を当業者に聞けり曰く工女の熟練と云ひ糸質の善良と云ひ今や将さに駿々として其歩を進め数百年来独り本場の名称を博し来りし信達地方の肩上を掠めて将さに其頭を出さんとするの概ありと蓋し同地方の生糸産出高を聞くに去明治十四五年の頃に当りてハ両葉宇多行方の四郡を合して僅かに三百個に過ぎざりしも、今や即ち千個を算ふるに至り、殊に今年の如きハ千五百を超ゆるあるべしと
明治26年8月6日民報

情死の遣損ひ犯罪となる  現世で散々遊蕩遊し又候冥里で道楽を極めんなどは到底本気の考へでなし行方郡小高村菓子商青木幸助(廿四)と云ふ蕩隋漢ハ同村南小立の貸座敷今村与助方の娼妓横田きみよに現を抜かし末は夫婦と思ふ丈けハ思たなれど花に嵐は時節柄逃れ難く遂ひ死神の誘ふ所となり去月廿三日午前四時と云ふ夜の明けあけ頃今村方の二階にて二人は覚悟を定めし上幸助ハ小刀手に取りきみよの頸部へグサと刺し往生するを見届けて自分も共にと返へす刃に我れと我が咽を貫きしが死損ひてジタバタする内家内の者に見つけられ其後医療を加へて生命丈けは拾ひ上げしはよいけれど第一人を死なしたは自殺の幇助と申して法律の許ざる所なれば幸助は本月一日予審終結の上軽罪公判に付されしとは随分気の利かぬ新聞だね
明治27年5月5日民報

○中村町の戦勝祝賀  去る一日中村町有志者は旅順口占領の大祝賀を為せり会場は旧城二の丸にして大手先及二の丸入口に大国旗を交叉し大元帥陛下万歳、大日本帝国万歳、帝国陸海軍万歳など大書したる三流の大旗は二の丸北手の両県社に樹てられ準備壮観を尽くせり、軈て同町小学生徒は整々隊伍を為し千百有余名粛々として来りたれば爰に競技演習を為し豚尾漢の首級を書きたる紙旗五十有余を樹てて之を競取せしめ縄引等の競技ありて祝賀会を挙げたり開式に先ち学生の厳粛なる唱歌あり守屋正人氏開旨を述べ両県社に於てハ勝戦祈祷を行なひ終りて宴会に移り千五百有余名の来会者は歓呼の間に散会したりと当日は町長新妻周蔵氏斡旋の労を執り小学生徒等へハ各々紙一貼宛を与へ近来の盛会なりしと云ふ
 明治27年12月5日民報

原町鹿島はむかしから博打で足をひっぱっていた。とうじの若者は酒を飲むか博打を打つか女を買うか。飲む打つ買うの悪徳三拍子が、当時のわが帝国の国体であった。禁酒運動をひっぱったのは、常磐線開通でできた原ノ町機関区の成瀬区長親子というメソジスト派クリスチャン鉄道員だった。

○鹿島町歳末景況  行方郡鹿島町ハ戸数二百廿戸あり相応に繁昌の処なるが最早旧年末に際し れば各商店にてハ各所の露店を開らき在方より続々出市の例にて一年中の賑ひハ此日を以て第一とす然るに本年ハ在方よりの人出更らになしと云ふべき有様にて市中寂然年末と云ふも人ハ信ぜざる程なり只賭博者、借金取、最速人、薪炭商の時々来往すると見るのみ随って露店の設けもなく各商店にてハ是れではたまらぬとて売子を各在に派すと雖ども毫も格別の商もなく何れもこなし居る有様なり畢竟此不景気ハ何に原因するかと云ふに昨年横浜表生糸の好景気なりし頃ハ戸鵜地人民ハ其前の早や既に売り尽して其影響を得るなく又米作ハ其質善なりしも収穫の例年より減少したるを以て是又平年ほど利益なく之に加ふに賭博流行して村民惰弱に流るるの弊なり依て今日の不景気を致すに至りしならんと

宇多行方郡の郡役所が中村に造られた。明治28年。
また同じように相馬市と南相馬市が自治省主導で合同させられる気がする。
浜通りは廃炉エリアとして特区になり、人口減少を最先端テクノロジーと補助金で、かろうじて生存させるという未来図。
参院選は、そのための定員1減か。

明治28年9月1日民報
○宇多行方郡役所開庁式  去る廿五日挙行したる行宇郡役所開庁式の盛況其大略を記すれば大なる緑門と大なる国旗其数十百の球燈は庁舎の四周を装飾し玄関及び各出入り口も亦同様なりき軈て午前八時頃三発の煙火を合図に庁舎の広庭には剣士数十名の試合と大弓の競技あり十時三十分四発の煙火にて指示に移るの準備を為し五発にて一同式場に着席す其重なるは原知事及び随行県属馬場、成田の二氏目黒、田倉の県会正副議長及刈宿常置委員、議員二名、各町村長、各町村議員総代、外山判事、堀江検事、富田警部、赤十字社員、収税分署長及び二円以上寄付金等総員二百有余名、一同の着席するや中村高等小学校生徒諸君君が代を唱ひ原知事の祝辞熊川郡長の答辞、目黒議長、新妻町長、二宮野、野崎両郡議員其の他数名の祝詞朗読及演説あり次に知事より該工事に尽力せしものへ褒賞授与を為す其員数三十名、授与の間ハ終始女生徒の唱歌あり右終りて祝宴に移る時に正午十二時にして献酬談笑各自の歓を尽して閉会を告げしハ午後三時三十分たりしか開宴中は絶へず煙火を打ち揚げたり因に記す新築庁舎に旧相馬藩の城跡、風景最佳なる所にして恐らくは県下庁舎中最好位置を占むるもなるべし

明治28年頃の話題 原町小学校の女子就学が少なくて、幻燈器買って奨励した逸話。「朝日座全記録」追補。
28年11月13日
幻灯器寄付  行方郡原町村外二ケ村小学校学齢児童の就学は主として男子のみに偏し女子に就学生の少なきは夙に同村小学校職員の憂慮する所なりしが今回其督責法を励行し是非両三年の間に女子教育を普及せしめんとの計画より村内父兄勧誘の一助として高等校が組む医院二宮尊親尋常校学務委員遠藤周輔の両氏率先して幻灯逸話購入資中に金二十七円を寄付したるを以て同村小学校にて従来準備ありし破損器を利用し近来の新形に修復し幻画数十葉を買入れ冬季農民の閑時に於て各村大字毎に集会を開き一ハ女子就学の奨励に供し一ハ学校との連絡に供する見込にて其準備整頓したる由

明治29年。常磐線の開通で地面をほじくり返したせいで、おおくの埋蔵文化財が出てきた。これはそのひとつの観音様。ちょうど、さくねん開通したj常磐自動車道のおかげで、縄文遺跡がごろごろ出て来て文化財掛が対応しきれない状況に酷似してます。
開通直前に掘り返している土の中から鹿島町の古代遺跡が出てきた。常磐道の開通で縄文遺跡が続々でてきた2015年に匹敵する。

○千年以前の観世音を掘出す
相馬郡真野村の工夫新町某が使役しつつある幸三郎とやら称するもの去る十一日の午後四時頃同場門下手といふ所にて日本鉄道の工事中千年以前のものとも思はしき観世音一個を掘出し金か銀かと研究中のよしなりといふ
○妙見神社の繁栄  征清の役以来相馬郡小高村の同社にては本県各郡はもちろん遠く茨城県其の他の地方より続々参詣人蝟集し神官佐藤政武氏は昼夜詰め切りにて社務に鞅掌し寸暇なき程なき程なりしと云ふ故に本年七月の野馬追祭典には各地方より御礼参りも平年に数倍すべく其翌日は煙火の打揚げ其外種々の観物ある由なれば定めし賑ふとなるべし
明治29年5月30日民報

明治29年、小高小学校新築開校式美術展覧会に時田忠治の刀剣出品。常磐線の開設あっせんで儲けた小高の大富豪は、御殿のような壮麗なる洋館お屋敷に住んでいたと聞く。相馬の殿様の次の時代のセレブは鉄道成金だった。
小高小学校美術展覧会
 明治二十九年(一八九六)十二月二十六日より三日間、相馬郡小高村(現小高町)の小高小学校新築開校を記念して美術展覧会が開催された。中村(現相馬市)、原町、及び、双葉郡内の所蔵家の刀剣、漆器、陶器、絵画等、九百有余点が出品された。

○相馬郡小高村外二箇村組合高等尋常小学校新築開校式   美術展覧会 当日(旧臘廿六日)より三日間新築校舎二階の三大教室に於て美術展覧会を開けり、降車の一覧を兼て来観せるもの頗る多く陳列品中尤物と数へられしもの古器物に在りては小高村円慶寺出品に係る相馬家より同寺に寄進されたる宝物にして婦人化粧具金の高蒔絵及食器等の数点、馬場勝之進氏出品古代の石斧、石鉈等は皆人の注目する所となれり、又刀剣の部にては鈴木重郎治氏の出品十数種の内濃州関の兼元、貞宗の短刀、長剣にては志津三郎及び兼光の作等にして其他鈴木安五郎氏出品の御福卿則重(正宗十哲の一)、相州秋広の作、及時田忠治氏出品中の相州助重の太刀等

紙幣百円の拾物
相馬郡原町大字南新井田の高久栄吉は去月三十一日午後四時自宅付近の鉄道線路内にて紙幣一百円を拾ひ其遺失主を捜したるに田島原町病院長のものなりと知れ直ちに送り届けたければ田島氏は其厚意を謝し清酒若干を贈りたりと
明治34年6月11日民報

○井田川たより
耳谷鰻の名は世に知られをり候も井田川浦なるものに至りては殆ど知る人無之全く世人に閑却され居り候
△ 井田川浦は相馬の南端福浦村にあり小高町を距ること里余、今津、耳谷、下浦、姥沢、浦尻角部内の各村落に囲にゅうせられ一帯の磯松原を以て太平洋を境し周囲二里余の長汀は曲浦を形つくりをり候
△ 井田川浦は鰻を産し鰡、鮒、蝦、イサザ、アビコ等を産すること又甚だ多く特にこの浦の鰻、鰡等に候この味の美なるはこの浦の泥深さが故と申居候これなどを通して一年の産額一万円と」申候外に三十余町の塩田を有し候也
△ この地方重に農業に従事するは稍隠居株の人々に候然し井田川堤防に家を構ひて専ら漁業を営むもの有之、その数通じて二百四五十名に上り候
漁獲の方法はフクベ叩き(ウナギ筒)鰻掻き、地引、サシ網、迷ひ簀、蝦筒、投網等そして地引は重にイサザとアビコを獲迷ひ簀サシ網は鰡、鮒などを獲候、近来ヒラタ(板船)を盛んに造り候もどんぼ舟(跨木船)は尚甚だ多く用いられをり候

明治35年の小高通信。火の玉がよく出た。日露戦争の開戦前には、全国で火の玉の出現が報道されている。いくさの前兆と、考えられたが、ようするに土葬が多かったから、地中の腐敗した遺体から空中にリンが浮遊して常温で発火する現象。とうじは神秘と怪奇だった。
明治35年12月21日 福島新聞
●相馬小高通信  当地労働者唯一の職業は羽二重業なるか近来景気のあしきを以て彼等は十分仕事の供給を受くる能わず何れも困難の状態にあり△役場は大隅町長以下何れも熱心に事務に革央掌 るより成績頗る り好評なり△新任小学校遠藤角弥氏は、着任以来職務熱心にして好評あり△駐在所巡査目黒兼蔵は益々評判甚だ宜しからず反省を望む△青年有志者須江恭山氏に不治の病 犯されて目下療養中病名は心臓なりしと云ふ実にあはれむべし△不思議なるは其の不景気にも拘はらず貸座敷芸妓屋等は相応に繁昌せり△近頃時ならぬ暖気を感し梅椿柿桃林檎等々の狂咲を為すみのあり是れ或は来年の凶作の前兆を為す者に非ずやと取越苦労をなす人もあり△本月十五日入営せる新兵は る十四日午前九時四十四分の下列車にて仙台へ出発す一町三ケ村の有志は停車場まで見送りしたり△本日一町三ケ村消防手の演習あり一同当町内に整列するや消火器の点検あり終て一同十八番台の 筒を携へ停車場前にて諸種の競技をなせり△怪しの火の玉 当町大字岡田字天神前と云ふはおふぎたる老杉老古松枝を交へて昼尚ほ暗き所なるか去る七月以来今日に到るまで怪しの火の玉飛び上かりて実地目撃せし人少なからず燐火かと思へば風雨の夜は決して出ず晴るゝ日の静かに暮れて人通りも途絶ゆれば大凡そ午后六時より七時の間に時を定めて径三尺ほどの火の玉舞ひ出てフラリフラリと浮ひつゝ福浦村村上に至り其処にて三つに別れて海に入る之れ怪しき奇妙な飛火の玉と云ふべし(十九日付)

新任小学校遠藤角弥氏とあるが、遠藤角弥氏はのちの昭和初期の原町町長。橋本町の佐々木千代さんは旧姓安藤。小高生まれだったが、雲雀が原で飛行機が飛んだ時に、遠藤氏からブリキのおもちゃをもらったことを覚えて居る。大正8年の記憶らしい。小高時代に小学校で担任か校長だった話の延長だろう。

以下は明治36年の小高町の興隆論。久保は民報新聞の朱筆で、過大な憧憬と期待を小高の実業家たちに投影した。いわく半谷清寿、いわく鈴木良雄。これほどまでに浜三郡中ずいいちの評価を与ええた名文を引き出した小高の人士の魅力にこそ、ぼくは惹かれるのだ。
じつはこの年は、小高は前年までのひきつづく大火で、全焼し、壊滅状態で、全国からの救援の寄付金によってかろうじて命脈を保ったという状態であった。だからこそ、久保は最大限の賛辞で小高を鼓舞し、激励したのである。文筆の力とは、そういうものだ。
小高に近代文学の使徒と旗手たち、島尾敏雄や埴谷雄高や日本国憲法の生みの親の鈴木安蔵たちをを輩出したことは奇としない。

小高実業界の飛躍 上 久保小蘇
 明治36年12月12日民報
人若し沿海三郡の実業を視察し其のいつれの地が最も驚くべき膨張力を認め得べきかと云はば恐らくは「小高」方部を指して之に答ふるに躊躇せざる者多からんなり、何を以て是を云ふか、謂ふ彼れ、「小高」をして彼れ自身をせつめいせしめよ。
 彼れ「小高」は決して帆檣林立の良港にもあらねば穏波十里の海水浴場にもあらず、風景の大に人を待つもの無く又観るに足るべきの大建築をさへ認むる能はざるの地にして、交通に於ても他に負るべき無く一言にして之を評せば単に田舎の小駅に過ぎざるのみ、彼の「平」の如き「中村」の如き「小名浜」の如き「富岡」の如き乃至「原釜」の如き特殊の地理を占めつつあるものと其比を同じうして見るべからざるは元より論を俟たず、加ふるに近さ過去に於ける数次の大火は彼等の頭上に与ふるに甚痛なる打撃を以てし其の生産力を奪ひ去りたること実に予想の外に出て人をして殆んど快復し得るの期無かるべきを想はしめたりき、然るに驚く彼れは恰も垂死の病者の如く思はれしにも係はらず彼れは漸く其の労力を挽回し来って青ざめたりし其の双頬に血色を、嗚呼是れ何に由って然るか、吾人の考に値するところのものは此也。
人は云ふ是れ彼れの大火の打撃に依って地方人の長き眠を覚されしに依る、と、夫れ或は然らん。人は云ふ是れ原町浪江対小高地方を通して勧業思潮の漸く高まり来れる結果に依ると、夫れ、あるいは然らん、人は云ふ是二三有志家が率先して他を励まし以て大に其根底を培わんとせしに依ると、是あるいは然らん、然れども吾輩を以て是を見れば小高地方に於ける実業の勃興は要するに小高人が己を空しうして他の言を容れ実地を探つ…区々の小理屈に忸まず事業の改良進歩の為めには甘んじて如何なる無礼の批評をも容るるの宏量首として是が謎を作りたるに因るとなすに憚らざるものなり。然り此の固き信念と広き度量を有して馬車馬の如く一直線に進まんとす、此に伴うべき幾多の新勢力と幾多の新活気とが物理の所謂加速運動に其の広場を急転しうるは現より怪しむに足らざる所、ここに至って初めて有志者も其の手腕も其の業に安んじて如何なる無礼の批評をも容るるの宏量首として是が礎を作りたるに因るとなすに憚らずるものなり然り此の固き信念と拡き度量を有して馬車馬の如く一直線に進まんとす、此に伴うべき幾多の新勢力と幾多の新活気とが物理の所謂加速運動的に其の運命を急転し得るは元より怪しむに足らざる所、ここに至って初めて有志者も其の手腕を振ふを得べく又労働者も其の活動の他と趣を異にし頗る注視に値するものあるべきかを確かめんとせば過般同地に開催されし物産共進会の「内容」を窺ふを以て捷巡なりとなす、何となれば「内容」は外観よりも重ければなり。

○機業工男女奨励会  去る廿三日午後一時相馬郡原町座に於て原町外四ケ村連合機業工男女奨励会開会式出席工三百名内授賞者四十四名にて油井商店出張員大久保一氏及び半谷清寿二氏工男女に対し最も有益なる講話あり午後四時半散会是れよりは織物授業師長沼氏町長佐藤徳助氏原町銀行員其他有力なる人人の出席あり会員六十名近来稀なる盛会なりき本日は地方有力なる機業家の尽力により装飾及会場等十二分の準備を整へ緑門には「勿 驚本県輸出羽二重産額五百万円」等の大字を写し大々的張めり
38年7月26日民報

相馬野馬追行 特派員
福島より原町
初めての相馬野馬追見物、嬉しいやら恐ろしいやらで先が聊か案じられた、五時と云ふに寝所を出て六時に福島駅に駈付た、西沢知事久保斎藤両属、吉成連隊司令官鈴木副官の諸氏あり、六時十四分の汽車に降り続いた雨も晴れて、日光も晴々しく照らすので心持も一段と宜い、片隅を占領して新聞を読む、早起きしたので目が渋ぶい、鈴木副官は君の方の新聞で主催して、吾妻登山を遣って呉れぬかと謂ふ、僕は大賛成だから何れっ相談すると答へて置いた、岩沼駅は乗換駅だから下車する、知事と司令官は駅長室に休憩した、野馬追見物に行く人が待合室に一ぱい詰め込まれて居る、全く気の毒なほどだ、僕はホームに頑張って詰め込まれずに済んだ、九時近くに海岸行の汽車が来る陸軍中佐が一人居る、いかめしい顔だが優しい人のやうに思ふ、汽車が動くと眠くなる、眠い目をこすって窓外を眺める、初春から真夏が俄に来たやうにジリジリ暑く照す、半夏蝉がヂーヂー鳴く、田の草取が稲田に散ばって居る、
明治41年7月15日民友新聞

相馬野馬追行 (二)特派員
明治41年7月17日民友新聞

壮大なる神旗競争
演習は面白いもの
停車場に二時間
明治41年7月19日民友新聞

五 一部の人生観なり
原釜海水浴場
明治41年7月22日民友新聞

六 壮観の日の出
松川浦の舟遊び
明治41年7月23日民友新聞

○ 県の名物野馬追
前後三日間の大祭式
九日まで降り注ぎたる小糠雨の十日には余波なく晴れ渡りて雲の絶間より青き空さへ見えければ原町小高中村各町は俄かに色めき立ちて町内の装飾祭典の準備に忙殺せらせしむ許り
明治42年7月13日民友新聞

赤い川黒い川 二面の続
 雲雀が原の人模様
△一起又一伏 本陣前から一千の騎馬が争ふ有様を見ると其壮観は実に筆紙に尽し難い、ドーンと一発の煙火が揚がるとあれ程の馬は皆鬣を揃へて待って居る、旗の下る方向に指し物が靡くのは一号令になって伏するが様である、而して一騎鞭を以て該旗を拾ふて走ると今度は其方に伏す、一上一下一起一伏とは正に此事で其見事さは云ふばかりなしだ。
△色ある模様  さしもの広い雲雀が原も殆ど人を以て填めたと云っても差し支ない位だが、尚東西縦横幾条かの道には人が蜘蛛の子の様に居る。中には種々雑多な旗印、夫から婦女子の長袖と云ふ様に殆どありとあらゆる色がある。本陣山から見ると是が翠の大草原を色模様にして時に閃いたり、つぼんだり。
△色ある流れ  愈々祭典が終了して十万の人が一時に崩れて諸方の路から帰りかける、此時も記者は又山上から見て居た今度は先程の模様が一変して色ある川が幾筋も出来た、川か海に向って流れる様に、此色ある流れは皆原の町の方面に流れて居る、穏やかな流れではあるが点々騎馬の交わった処は洪水の様である。
明治44年7月14日福島民報

小高の神燈

天にあっては銀漢
地に在っては万燈

雲雀が原の野馬追を観た客は潮の如く小高町に押し寄せた。元来小高町は碌な旅館がない処であるが、もう泊まる処がない、いくら雑魚寝でもできないのだ、強いて割り込んだら単衣も貸さなければ湯にも入れない、止むを得ず汗臭い体を運んで、有名な火の祭りを見ねばならぬ、職務と云ふものは辛いものだ。
△一条の火龍  午後六時半火が点くからと云ふので街頭に出ると。驚くべ可し小高町の中央は端から端迄一条の線をなして火が燃える、綿が木綿に石油を いで、是を針金で縛って別に電線の様に引いた針金の処ひに結んで下げたのである。一時に燃え上がる油煙は濛々天を焦さんとするさまで、勿論向側の人の顔などは見えぬ。イルミネーションと云ふが、とても左様優しいものでない、頗る豪壮で、粗野な若し象の世界に電燈があるなら、其イルミネーションだ。美人は顔が煤けるから此祭りは見物す可らずと思た。
△流燈と爆竹  歩を転じて小高川には幾千の流燈が流れもあへず、水に漂ふて居る。して其傍らには盛なる爆竹の音が耳を聾せんばかり、加ふるに遥か中空には提灯を以て満飾せる櫓に天を彩る五色の煙火が消えては又現はる。河中には提灯を以て満飾せる櫓が出来て、中には人声よりも遥に音の高い蓄音器が、活惚をやる、越後獅子をやる、忠臣蔵をやる、一方では又仕掛煙火が絶えず此河上を横ぎって飛ぶ小高神社に達する道路にも火を立て連ねて置くので、丘下にある半谷清寿氏の塀に映じて恰も、浮城を観る感がある。天も地も河も空も悉く彩火で包まれて、中から美妙が音楽が響いて来る、ああ是ぞ、絢爛たる美は幾千の眼を眩した。
△地上の星華  更に歩を進めて小高神社の丘上を登って南方を見渡すと。ああ壮絶! 快絶! 。勿驚 小高郷の全部広大数里の平野は一面に是れ、燦然たる火である、天上に花を飾る幾千万の星が、故あって直ちに暗中に明滅し、近きは其炎が漂ふが如くに、右も左も皆点々花を欺く美観を呈して居る、ああ僕が翼があったら此星の上を飛翔するだらう、鰭があったら、此花の中を泳ぐだらう、
将に雲を破らんとする月が張
とする光を包んで今宵地上に群 
めて君臨せんとするのであるかと
なる。西には宵の明星が幾千燭 アーク燈の如くに独り其強き光を
して居る、見よ しも中空に打ち揚げられたる煙火はさっと

野馬掛奇観 二面の続
△ 不思議な神水
十三日正午、小高の野馬掛を見る。元原は野馬を此処に追ひ込んで手取りにしたるものだ相だが、野馬が居なくなってからは飼馬を放して、昔の型をやるのである。
△仇討ちの図 小高神社の広前に竹矢来を廻し見物人は矢来の外を十重二十重に囲んで押合ひへし合ひ中には矢来の中から首を出して団扇を使ふて居る者なども居る、何と云ふ事もない絵本にある仇討の図其処なのは面白い、まさか人間が馬を仇に思って手取りする訳でもあるまいに。
△白衣の取手  軈て時間になると下手の方からや「アーや、アー」と云ふ鯨波を上げて約二十人の壮者が神社の前に駆け出して来て殆んど狂態の如く其辺を暴れ廻り、社殿のある鈴を破れる程叩き殴って、それから此人人は矢来の中に現はれ、神職から払の式を受け神酒を戴き、神水を呑み、神符を紙撚りにしたものを白鉢巻の心にし甲斐甲斐しく身支度くを整ふ上下皆白衣足は只白足袋の上を縄で二廻りして結んだばかりだ。斯くて裃を着した人が三宝に礼を捧げて其を振り撒きながら場を一周して清める、同じく其跡から神職が榊を持って清める。
△神馬を献上  明治44年7月15日民報

はらのまち100年史

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