原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

山住み 大木惇夫の浪江町疎開の記録

 家のまわりにむくどりをよく見かけた。この鳥を村人は大高すずめと呼んでいた。当時、高瀬川の岸辺の砂地には、はまなすの花が咲いていた。この花を村人はだんぶの花と呼んでいた。
 山住み
大高すずめ。巣を懸くる
この山里の詫び住みも
慣れてはたのし、きのうけふ
春の日永に堪へもすれ。
大高すずめ、巣ごもれる
柿の古木の木の洞うろに
淡青(うすあを)いろのうづ卵
けさ初めてぞ見出でたる。
大高すずめ、えしやえし
めぐし卵の青球(あをたま)は
双手にうけて、ころがせば
光り翳りのあやのよさ。
大高すずめ、鳴かば鳴け、
いたづくこころすべをなみ
双手に卵ころがしつ、
春の日永を暮らしつつ。
 惇夫にとっては、初めての農村生活であった。都会の暮らしにはない気苦労もあった。しかし、村里の暮らしの侘しさも、村人に伍してゆくことの苦労も、鳥たちや山野の花々が癒してくれた。こうした自然の恩恵も加わって、惇夫の病気は日に日によくなっていった。
 この村での自然と一枚の生活は、若い日の小田原での生活を思いおこさせた。惇夫が初恋の人慶子と結婚して間もなく、病身の妻の健康の回復を願って東京から小田原に移り住んだ。大正十年の夏から一年半ばかりであったが、山と海にかこまれた小田原の自然も美しかった。処女詩集「風・光・木の葉」の大半の詩は、小田原の自然の中から生まれたものだった。 「小田原の自然くらい饒ゆたかにも恵まれた自然は少ない。そのありとあらゆる風物は、既に私の詩作生活にとって無限の宝庫であった」「私は爽冷な山気に打たれるのだ。海風に吹かれるのだ。近くの太陽に身を曝すのだ。花粉にまみれるのだ。さうして身につけてゐる一切の病的な滓や埃や雑臭を洗い落とすのだ。それから自然の秘密に探り入るのだ。鳥の言葉を、草樹の呼吸を、花の智慧を、昆虫の囁きを解き明かしゆくのだ」
 その時も、自然の風光に恵まれて、それを楽しむことのできる歓びを、惇夫は詩集「風・光・木の葉」の跋文に記している。
それから四半世紀の歳月を経て、五十歳となった詩人の前に、自然はまた帰ってきた。田園の春の風光が、詩人に生気をとりもどさせた。からは、この村の自然の美しさを次のように書いている。
 「なんといっても春は来た。いつしかに、わたしをめぐる一切のものは、単調な北国の冬籠りから抜け出してゐた。白い砂地の桑はさみどりの葉をつけ、畑には青麦がそよそよと風にそよぎ、水野せせらぐ畔のほとり、芹、なづな、はこべ、蓬が萌へ、犂きかへされた田の黒土には一面の紅のれんげの花が咲き、いまごやしの白い星が点々とあらはれた。穀倉には秣草のにほひが満ち満ちた。大高倉の緑の天鵞絨を敷き垂らしたやうな山なだれには早くも蕨が萌へ、わが宿の軒には通草アケビの花が小さな白い灯篭をつるし、高瀬川の中洲の磧石には、春の陽ざしがさんさんと降りそそぎ。仔山羊の一群が青草をはみ、朝夕には古い物語の中からぬけだしたやうな牧童が、現に草笛を吹き鳴らしながら牛を追ふて行くやうになった。さうして、夕靄のうっすら炊煙がたちのぼるのを眺めまほした時、自分はまさしく牧歌のさなかにゐた」(詩集「山の消息」)

 「浪江と大木惇夫」大堀の松本博之

はらのまち100年史

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