明治36年 農学校作って県に叱られた青年町長徳助
相馬農学校の前身・原町実業補修学校の創立

明治36年5月26日開校式を行い
原町・石神・高平村組合立実業補修学校が誕生した。のちの相馬農業高校の前身である。
相馬農業高等学校80周年記念誌(1983年発行)に、初期の生徒、鹿島町の佐藤六郎氏が「九十三歳翁が語る創立の頃」という談話を寄せている。
最初に思うこと
母校八十周年というとあれから80年も経ったのかなア。この川子から原町の学校まで一里半、往復すると今にして約12キロ。毎日下駄で2年間通学したもんだった。道は線路伝いで、時には貨物列車にぶら下がったりして。
あの時の校舎は現在の場所ではなく学校のすぐ近くに板倉酒屋と云ったかなア、いつも大きな酒樽がゴロゴロしていたっけ。校舎も今思うとお粗末で、まア長屋のようだった。
制服があったかって? 制服ではないけれど、大体みんなおんなじ着物を着て通った。男子は木綿の棒縞、女子も木綿の着物に赤い前掛という服装。(ヘーエ、80年前の相農は今よりナウい男女共学だったのですか)先生は洋服姿もあれば袴姿もあったが、併せたって生徒32名に先生だって数名。それでも三大節(天長節や紀元節といった今の建国記念や天皇誕生日などの祝日)の式の時には、女の人達もエビ茶の袴をはいて澄ましてた。
あの頃は小学校4年という制度で、その上に2年の実業補修学校というのが出来た。そう尼の草分けというのだろうが、あれは組合立と云って原町、石神、高平が作った学校なので、私達鹿島や小高から入る生徒は少なく、その上組合以外の私達は授業料も別にとられた。
女子もいたと云ったが数は少なく、どうも七、八人が南のがわに一列に並んで授業したような気がする。畑や養蚕など実習の時には、女子は別室で裁縫していた。男女仲良かったかって? 2年一緒に通ったはずだが、お互い特に関心もなかったし、あの中から世帯を持って夫婦になった例など聞かないなア。そう云えば同九回も余りやらないので、同級生の中の役職に就いた人以外はもはやなめもよくは覚えていない。
授業はと云えば学科、農業だけでなく、実業補修だから商業も簿記珠算もあった。商業の先生は仙台弁の訛りがひどく、九州弁の先生もいたっけなア。運動場はなかったようだが、体育には射撃をやった記憶がある。あの頃から軍事教練がはじまるだナ。
(学校行事としては)
一年次に大原発電所に行き、そこから馬場の不動滝まで駆け足させられた。勿論運動着など無いから、裾を端折ってしたばきにネルの股引きようのものを穿いて走った。半分位は落伍したっけ。二年次には旅行があった。浪江から手岡原の半谷青治翁所有の梨畑、次で大堀焼見学、室原から上太田への全行程歩き通しの二日間だった。梨を食べたのだからあれは秋だったろうナ。泊まった家はと云えば、今でいう民宿かもしれない。女子は参加しなかったが、先生も全員混じって、おにぎり二ヶに草履ばき・・・一応修学旅行だったんだと思う。
(終わりに)
誰の勧めで入学を決めたかって? それは末子叔父に相中2回生がおって、その叔父から進められた。あの頃の相馬は川子から遠く4年は長いが、原町なら近いしそれに2年だからとその叔父がすっかり手続きしてくれた。(本人談 実補2回生)
80年誌は語る。
その頃相馬地方には中学校としては明治33年に発足の相馬中学(現相馬高校)があったのみで、義務制の小学校すら100%就学には到っていない。義務教育の尋常書うっがこうが4年、高等小学校が4年、その上に術業補修学校2年を付設させようと着眼された若き町長の卓見は、敬意に値する。この町長は卒業生の手記によると、卒業式に欠かさず臨席された、とあって教育にかけた情熱の程はそれだけでも窺えるが、それ以上に看過できない一文が「徳助翁遺稿文」に残っている。それによると「明治37年日露の風雲の時、公認を待たず校舎新築起工、以て竣工の後4月、生徒引き移したるにより譴責せらる」と。
明治37・38年は、その10年前の日清戦争に続く日露戦争の勝利でわが国近代史上記念すべき年ではあるが、一方国内は大凶作の年で天明の飢饉以来と嘆かれた。このような年に出費多い校舎建設に踏み切ったと当局に非難された町長にしてみれば、却ってこんな年だからこそ、地方の殖産のために産m行教育の必要を痛感して敢えて決行したのであろう。かくて骨っぽい先駆者の勇断によって滑り出した本校は、」二年目にして間借りの小学校校舎から抜け出し、現在の地でいえば東北電力会社の辺りに新築移転する。現三島町1-65の最終地に落ち着くのはそれから3年後の明治40年つまり郡立になってからである。」

その辺の事情について、当時の新聞はこう書いているのを見つけたので紹介しよう。
○原町実業学校に就いて 嘗て本紙は原町なる実業補修学校に就いて云為する処ありしが当局者某氏がこれに関して弁ずる所を聞くに元来彼の実業学校は小学校舎の一部を借り受け授業を為し居たるが生徒の益々増加し来ると共に狭隘とあり他に新設するの必要起りしより基本財産の一部を以て此が新築を為し然る后に届出をなしたるより県衙にては基本財産の使用法其建設の要領等に就きさとす処ありしが既に建築の後なりしかば如何とも為す能はず又時局柄とは謂へ好個の事業なるを以て此を許可したるなり云々と」 明治37年11月26日福島民報
うんぬんと、大いに弁護の筆を振るっている。

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