原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

M29 相馬の郡都、中村町

明治29年 相馬の郡都、中村町
新妻三男著「中村風土記」。同書の中で、氏は郡と郡長の権威について愛惜を込めて次のように書いている。
「昔(といっても明治の中葉から大正年間まで)県と町村との中間に、郡といふ自治体があって、郡長が郡の一切の行政を取り仕切った。郡長は一郡の首長として、正に一国一城の主であり、地方では権勢並ぶものがなかった。人物もそれに相応しく大きく出来てゐて、粒揃ひだった。(郡の自治体廃止後、県の出先機関としておかれた地方事務所長など比較にならない)
相馬郡長で思ひ出される大物には、古くは大須賀履(二高教授)川崎末五郎(県知事・代議士)があり、地元中村出身には、飯塚清通氏と鈴木直清氏があった。相馬郡役所は城跡 今の相馬公民館(中村一小向ひ)の所にあった。」
旧原町市史は郡制についてほとんど言及しない。ただ「郡会議員」の項目で「明治二十三年新しく府県制、郡制の制定によって県、郡、町村の制度が確立したので、各議会は整然としたものになったが、本県では明治三十年より実施したようである」としているのみだ。
明治十二年に、宇多郡と行方郡が設置され、中村に宇多行方郡役所ができた。この古い地方名の宇多郡と行方郡の二郡が統合されて、相馬郡の名が誕生したのは実際は二十九年だ。おおむね旧相馬藩の大部分を占める。南は標葉郡、楢葉郡の二郡が統合されて双葉郡となったが、両方の葉を採って「双葉」とはいかにも人工的の造語だ。
原町市史は、「明治三十二年(一九〇〇年)郡制の一部改正によって、郡会議員も公選となり」と書いている。明治三十二年は一八九九年であり、一九〇〇年とは明治三十三年だ。元号と西暦が一致しない。
また本文で「この郡制も大正十二年三月三十一日で廃止になってしまった」としているが、記述のベースは笹舟の「郡制廃止」の項目だ。年表では昭和元年の項目に「相馬郡役所廃止」とある。
たしかに大正十四年には、まだ郡役所は生きていた。郡役所の廃止後に書く町村が合併を検討しているという新聞記事が見える。また大正十五年に発行された商業地図にも郡役所っは生きて存在している。大正十二年の廃止は法制上のことである。原町市史の著者は、郡制には興味がなく、それに関する記述もごとんどない。その理由は郡役所は「中村にあったから」という、ちょうど中村人の愛着と反比例した気分なのかも知れない。
笹舟が郷土史家としてデビューしたのが大正14年であった。
笹舟は、昭和9年に「相馬の中村」という冊子を出版。彼自身の思いのたけをこめている。
昭和9年4月、口絵写真に使用しているのは絵葉書で販売されているものと同じで、馬陵公園の藤棚、二宮尊徳像など。彼は序文にいう。
「城は中村に在ったではないか。爾後又郡衙この町にあり四町二十四ヶ村を支配したではないか」「予は年月を惜しまずして中村町志を編纂した。中村町には誇るべき美点多きに失して改めざるべからざる点をも発見するに到った。園美その醜は焉に秘して頁を尽して読者に訴うる処である」と。
もともと笹舟亀五郎は原町に生まれたのであるが、相馬藩の首府中村に惹かれて移住した人物。相馬郷土史の編纂をライフワークにし、大正12年にデビューした。その年に郡役所が廃止されたのだから、彼の無念は美化されて昇華された。昭和25年に到って本格的な郷土史を出版するものの、昭和9年の「相馬の中村」はたった40ページの分量にすぎず、巻末に広告を掲載して印刷費用を捻出したものでもあろう。
笹舟郷土史は「郡制廃止」の項目で、次のように書く。
「明治二十九年四月、行方宇多の二郡を合して相馬郡と改称し、中村町北町九十二番地に郡役所を置きました。以来二十六年地方自政に当っていましたが、対象十年四月十二日、内務省令法律第六十三号により、勅令第四十四号を以て、郡制廃止せらるるに至り、之が実施整理に要する機関は、同十二年三月二十一日とし、同年四月一日限り、左の理由により郡制は廃止されました。
一、府県と町村との昼間には、郡制による自治体を存置する必要を認めず。
二、郡を純粋的行政区画となし、単に法律上の運用及び地方制度の監督に止む。
とありて、郡制は廃止されました。
大正十五年六月三日、内務省令第百四十七号を以て発布した。地方官官制の改正は、第一条より第四十九条に因って、それらの事項理由を明にし、従ってこれまで群役所及び郡長によって郡制を処理せるものは、この改正のために、当然必要を認められなくなりました。ここに於て本郡役所の事務は六月三十日を以て、本県内務部に移管されました。」
(歴代郡長の氏名、任期、勲記等略)
「此に於て郡役所は閉鎖され、建物全部は県の所有となりました。が、各種団体はその一隅に職を把ってゐました。ただ県税務は一室を占めてゐました。蛭田孝太郎は主任にして。書記二三名でありました」と。
大正14年 郡役所廃止で相馬野合併問題論議
「相馬の町村合併 支庁運動と同時に各方面で論議さる」
郡役所廃止後の町村を如何にするかといふ問題は地方に取って可成の重大問題である相馬ぐんなどは一方に於て支庁設置の運動をすると同時に町村合併問題なども夫々研究されてゐる小高、福浦、金房の一町二ヶ村合併問題は既に両町村理事者間に諒解成り頻りに運動の歩を進めてゐる、更に中村、松ヶ江の合併も問題化し来り
原町を中心とする石神、高平、太田、大甕の一町四ヶ村即ち旧中の郷の合併問題の如きも識者間に研究されつつある、そうならいっそ旧藩政時代の制度に復し宇多郷、北郷、中の郷、小高郷、標葉郷、山中郷にわけて仕舞った方が宜いではないかといふ説も可成真面目に論議されてゐる
7月8日民報

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