原町無線塔、朝日座など福島県南相馬市原町区(旧原町市)の文献を公開

山本薫 おはよう徳島

誠 第31飛行隊(通称・武揚特別攻撃隊)
隊長 山本薫 陸軍中尉
小松島市小松島町出身
<遺書>
愈々 晴れの特攻隊長として出撃。
途中死んだ部下もあります。
その仇討ち。
近頃、つくづく死ぬは悲しむことにあらず。
悠久の大儀とは何かという事を悟り
喜んで死ねます。」
修養はむつしいものですね。
薫も今やっと完全な人間となることができました。
薫より。
母上様」

「愈々晴れの特攻隊員として出撃す。
母のことを宜しく頼む。
芙祥子の事も。
死すべきときには潔く死ぬ。
山本の家名の誉れを汚すな。
後は万事頼む。
兄より
裕泰殿」

誠 作命(作戦命令) 甲第315号
誠部隊命令5月13日
台北
一、球兵団前面の敵は殆ど其の全力を展開せるものの如く、
沖縄周辺敵艦艇の動き、
又極めて活発なり。
<省略>
四、誠 第31飛行隊は、
本13日、出動可能の全力を以て
一九二〇 乃至 一九四〇の間に
沖縄周辺の敵艦艇を索めて
攻撃すべし

これは、陸士で同期生の菱沼俊雄さんが
終戦5年経ってからまとめたもので
故・山本薫中尉の奇跡が克明に記録されています。

菱沼さんの記録によりますと
山本中尉は
昭和20年5月13日 午後4時32分、
台湾の八塊基地を出撃。
午後7時30分。
沖縄・中城湾に集結する敵艦艇群に突入しました。
享年23歳でした。

山本薫中尉は
大正11年4月16日
小松島市小松島町に
三人兄弟の長男として生まれました。

成績優秀な山本中尉は徳島中学へ進学、
卒業間際の昭和14年12月。
陸軍士官学校に56期生として入学。
二年後、陸軍航空士官学校で
操縦士としても技術を身につけました。

故・山本中尉の人柄について義理の妹にあたる
山本安恵さんは次のように話しています。

(VTR 山本安恵さんへのインタビュー)

山本中尉は本当に家族思い、
又、部下思いの優しい方だったようです。
いくつかの手紙をご紹介しましょう。
「私は十幾人かの若い部下を率いて戦場に参ります。
真に可愛い奴ばかりで、
中には家庭の事情のお気の毒な人もいます。
しかし、みな、殉国の至誠に燃えている様子は
正に神様のようで、修養の至らぬ私が
果たしてよくこの重任を果たし得るや、
彼らを立派に死に就かし得るやを恐れる次第です。
若し私が死んだら部下の人達の遺族の方々へ
宜しくお伝へ下さい。

今、芙祥子の受験前とて忙しい事と思います。
かげながら芙祥子の合格と将来の幸福を祈ってやみません。
薫は、今迄偉大なる父上様、母上様の養育を受け
本当に幸福でした。
どうか母上様、
薫の死を喜んで下さい。
ご健康と芙祥子の幸福、
裕泰の武運をお祈りします。」

粗末なわら半紙に走り書きしたこの手紙は
出撃20日前、台湾の基地で書かれたものです。
「母上様には長々お世話になり孝行をつくせませんでしたが
不幸の罪お許し下さい。
薫の肉体はほろんでも魂は決して滅びません。
どうか芙祥子や裕泰を見守って下さい。
空襲なんかあまりこわがらぬようにして下さい。
では失礼します。
お元気で。
裕泰にも宜しくお伝へておいて下さい。
四月二十七日夜
薫より
母上様
膝下」

『戦争の世紀』と言われる20世紀の中で
太平洋戦争の特攻死は
私たちに強烈な衝撃を与えました。
当時の若者達の殆どが
国難に殉ずるのが当たり前と考えられていただけに
やりきれないむなしさを覚えます。
しかし私たちはこうした時代があったことを忘れないでおきたいと思います。

「徳島の20世紀」
http://www.jrt.co.jp/gallery/hitchart/..%5C..%5Ctv/ohayo/20c/15tokko/index.htm

資料提供

司会
遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ
制作
胡田俊一

資料提供(敬称略)
ドキュメンタリー工房
故 菊池俊吉

2000/04/27 徳島の20世紀 ~15  特攻隊員の遺書より「おはようとくしま」

武揚隊の歌:

http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51984924.html

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