19 思わず天皇が立ちあがって
 こうして演技種目が進行し、整然たる上演を見ている側の控え場所から、さあ、今度は野馬追の順番が来て、会場中央に百騎の旗を背負った相馬の騎馬がすすみ出た。
 それまでは、古式の流鏑馬の騎射や乗馬述の披露であり、馬そのものの披露の演目である。また、農作業の様子を御覧に供し、軍馬多数が演技したのではあったが、それはいわば静的な演目と言える。
 甲冑武具に身を固め、それぞれの旗印を背負って、ゆらゆらと揺らめかせる戦国の騎馬軍団が、いきなり百騎も出現したのはまことに異様であった。参加人員は百三十五名。参加馬匹は百頭。つまり三五名は、この場ではわき役となった。あくまでも馬事大会である。主役は馬ということにある。だから、野馬追のすべてを天覧に供したといっては言い過ぎになるだろう。喪馬追のハイライトである神旗争奪戦が、ここでは演じられた。
 花火(ここでは煙火とされている)は三発。
 いったい誰が手中に収めるのであろう。相馬では花火で打ち上げられた神旗を馬上で競って奪い合うのが最大の見ものであり、武者最大の栄誉とされた。ご本陣山の羊腸の坂を駆け上がり、総大将に首級のかわりの神旗を捧げ出て、褒美をもらう姿こそ、相馬健児の晴れがましい最高栄誉なのだが、ここではそれに匹敵する以上の、天覧試合の午前での栄光だ。それを誰が掴むのか。
 玉座の御で神旗を奪い合う。舞台装置として上京野馬追はこのうえもない申し分なき演出だった。
 午前十一時十七分であった。
 玉座に向かって右手に本陣が置かれ、総大将には相馬家の東京在住の一人相馬甫胤氏が出馬した。。世田谷在住でこの時二十五歳。
 甫胤の父は子爵相馬孟胤公。母は土屋邦子(子爵 土屋正直の妹)。日本帝国の人間ピラミッドの頂上部分にきらめく華族という「花」であった。
 玉座の前で一同が敬礼をした。
 総大将の御供の武者たちが所定の位置に付くと、先ず最初の煙火が上がるのを固唾を飲んで騎士らは待っていた。
 「わたしの乗った馬は三歳馬で、とうてい旗が取れる見込みはなかったので、この機会だからと思って、よおっく天皇陛下の顔を見ようと、玉座のそばに、おろらおろらと近づいていったもんだよ」
 と半谷は語る。
 ドーン、と一発目の花火が打ち上げられた。
 玉座の天皇は思わず立ち上がったて、前に歩み寄り、手すりにつかまって宙を見やる。その表情は真剣で、まるで子供のような無心さであった。
 ひらひらと、神旗が舞い降りてくる様子を、熱心に見守るなか、この最高の晴れの武勲を我が手にした一人に小高郷の杉一(すぎ・はじめ)がいる。
 神旗は、当時の相馬地方出身者としては英雄であった植松練磨海軍少将の直筆になるもので、植松は上海事件で陸戦隊長としての名を上げており、軍国主義華やかなりし頃のことでもあり、武人としてもてはやされていた。
 幸運なる栄光の騎士は、この時四十二歳であった。
 以後この神旗が家宝となったことは言うまでもない。

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