ドキュメント相馬野馬追 61 続武将意外史
新年一月四日からNHKの大河ドラマ「独眼流政宗」がスタートした。例によって政宗ブームが、日本中を席巻するであろうことは充分予想されるところだが、番組開始にちなんで伊達政宗の若き日の異聞に絡んだ歴史の秘話を八切止夫の「続武将意外史」なる書から紹介しよう。この「続武将意外史」は、辛らつな表現で当時の戦国政治の裏話を詳しく開陳して哄笑を誘う物語だ。秀吉と三成との呼吸、家康と本多平八郎とのやりとり等の蔭で、奥州の田舎藩、伊達と相馬の藩主は翻弄される。なんだか、現代の政党闇取引を連想させて面白い。また義胤の息子が、巡り合わせて家康のもとで競馬することになり、これが大穴の語源になったという奇妙奇天烈なエピソード。

相馬一族は、元亨三年(一三二三年)千葉上総から奥州行方郡(現在の南相馬)へ移住した家だが、嘉暦元年(一三二六年)に、太田から小高に移り、その十年後に小高に城を築いた。その頃、のちの御村上天皇となる義良(のりよし)親王をいだいた北畠氏が、多賀城の奥州鎮台に入って来た。相馬は北畠の命によって行方郡奉行となったものの、足利尊氏が北朝を立てて決起すると、これに加担し、南朝方と戦うことになる。
このため、南朝方についた伊達郡の伊達行朝(政宗の先祖)が小高を攻め、師胤の子重胤は城を囲まれて自害。小高城は落城した。
しかし、北畠氏や新田氏が滅ぶと足利尊氏は再び勢いを盛り返し、山中に潜んで機をうかがっていた相馬胤頼は、伊達行朝を伊佐城に襲ってこれを殺し、一族の仇を討った。
ここから伊達と相馬のいさかいは縄目のように複雑で解けぬ仇敵どおしの関係となったのである。
反目は延々とつづき、戦国の世に移り、仙 道(中通り)の支配者となった伊達政宗は天正十七年(一五八九年)五月早々に、相馬領宇多郡の駒ヶ峯と新地の二つの城をたちまちのうちに攻め落とし、小高城も危ない状況であった。
「伊達に臣従するにおいては、相馬は由緒正しき古い御家柄ゆえ存続させ申すが、もし刃向かわれるに於いては鎧袖一触」 と脅迫の使者を小高に送ってきた。大変な驕りである。
当時の相馬藩主は相馬義胤。
軍評定の結果、老父の隠居盛胤は、その席上で重臣らに向かって諭して言う。
「今や伊達は日の出の勢い。芦名を滅ぼした後は、岩瀬郡須賀川の二階堂氏も攻め落としてしまい、白河、石川、岩城の諸家はみな戦わずして政宗の軍門に下っている。鎌倉以来のわが相馬家を存続させるため、ここは伊達に従うも止むを得ぬ仕儀」であると。
「奥州茶話記」では、「義胤は老父の言に涙を流しつ、されど己より若輩の政宗ずれに屈服し、わが家の名を汚すよりは、むしろ屍を砂礫にさらすことこそ望まし、とそれに答えたところ、重臣どもも一同感泣して、死を誓って戦意を固めた」となっている。
ところが、丸一年後の翌十八年五月までもち、城は落ちなかった。
「これは後年、相馬家中において格好よく作られた話であろう。おそらく真相は、降伏はするようなしないような素振りを見せ引き延ばし策を計っていたものとみられ、なぜかといえば、もし重臣一同が決死の覚悟で政宗の軍勢を迎え戦をしていたものなら、その年の内に小高城は落ちていた筈である」
と断定するのは歴史作家の八切止夫である。
「奥州一円の仕置きのことにつき、この状つき次第、着到すべし」
と、秀吉が小田原から小高に対して切紙(命令指図書)を発している。

今後は一切もはや奥州においては勝手な私闘は禁ずる。もし違反の場合は叛乱とみなす、という内容である。
相馬にとっては天の佑け。
「これで伊達と戦わずに済む」と全相馬がほっとした。「命拾いをした皆がうれしかった」と八切止夫は「続武将意外史」に書いている。

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