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13 不忘乱の精神

13 不忘乱の精神
 平将門の子孫とみずから名乗ったのは、鎌倉時代初期に活躍する相馬氏と、その本家にあたる千葉氏である。
 作家永井路子は「続悪霊列伝」という本の中でこう書いている。

 では相馬氏はほんとうに将門の子孫であるかどうか、これはかなりに疑わしい。伝説によると将門七代目の子孫の重胤が東国を流浪した後、将門の故地に帰り、相馬氏を名乗ったという。後にこの相馬氏の男系が絶えたとき、将門の叔父、良文の流れを汲む千葉常胤の次男師胤がその後を継いだ、というのである。
 が、重国が本当に将門の子孫なのか、師常が相馬氏の養子になったのは事実なのか、そのあたりのことは確かめるすべがない。むしろ、在地の有力武士団だった千葉氏の本拠は将門の故地であり、中でも相馬を領した師常が、相馬小次郎と称したことから、将門が相馬小次郎と名乗ったとされて、その子孫と称するようになった、と見た方がいいのではないか。

 ともあれ十世にに活躍して死んだ平将門が、人人のイメージの中に復活したのは、鎌倉初期すなわち二百五十年ののちのことである。
 実力を以て日本全体に号令をかけうる権力を樹立したのは、鎌倉武士団が最初である。
 鎌倉武士団の中でも、有力な力をなした千葉氏が、こともあろうに反逆者平将門の子孫を名乗ることの意味は面白い。
 永井氏は断ずる。
 
 どうひいきめ目に見ても、将門の起こした争乱は、革命と呼ぶにはあまりにもお粗末で、政治的見通しもほとんど持ちあわせていない。彼の目ざしたのは、せいぜい坂東諸国の軍事的制圧だけであって、西国の中央政府を打倒しようという計画性はなかったようである。

 平将門の反乱は、未熟ながら鎌倉幕府樹立の先駆的なひな型」と見る立場と「あくまで偶発的な死闘を越えるものではない」とする。歴史上の二つの立場とがある。
 伝説に眠っていた将門を揺り動かしたのは、古代から中世へと動きつつあr時代の大きなエネルギーである。
 将門は呼び起こされ、関東千葉市によって生命の息吹を吹き込まれて甦った。彼は、反権力の英雄として守護神となったのである。
 将門に命を与えたのは、まさに千葉氏と鎌倉の民衆の大きな命であったろう。
 鎌倉武士団が政権樹立のために動いた経路は、かつて将門が動いた道と同じである。
 西国の中央政府の東国出張所であった国司は次々に倒され、力の所在が西から東へと移され、歴史の公認を受けた。
 平将門の乱は、早すぎた。
 だが、将門の闘いの中の精神は、活きて残った。
 「不忘乱」
 まさに武人の根幹をなす精神である。精神の系譜は、血縁とは異なる。
 奥州行方郡への移封後の相馬氏、奥州中村藩の前後の歴史をみれば、それは太平の歴史ではなかった。小藩が生き延びるための必死の闘いが待っていたのである。

はらのまち100年史

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