12 神となった将門
 全国いたる所に天神様がある。もともと管原道真が、学問の神様ということで祀られたものが、今や受験生の合格祈願の窓口になっている程だから驚く。
 その管原道真が、権力者管原一族によって、九州大宰府に左遷され、恨みをのんで死んだかはどうかはともかく、左遷させた方の側のうしろめたさは言わずもがなである。
 宮中に落雷さわぎがあれば、これぞ管公の怨霊のなせるわざと、当時の都人が信じたほどに、あの時代の「いじめ」の犠牲者となったのが管原道真だ。
 インテリだから、むしろ生前は、実際の人物としてはおとなしい学究タイプだったにちがいない。それがひとたび死して怨霊となったとたん、京の空の上を、凄まじい呪いの鬼と化して荒れ狂うというのは面白い。
 藤原一族に反感を持つ中央政界の反主流派の人人や、権力の横暴さに息をひそめている庶民にとっては、天然現象から怪異な出来事まですべてを、無念の菅公の怨みとして説明することは最も適当な心理的仮託であったろう。
 じっさい、権力の側にあって菅公を流した側の人人は怨霊を恐れたのである。中世において、怨霊はしばしば現実の作用として人間を悩ませたり病気をもたらしたりした。現代においてさえ、怨みの力というのは恐ろしい。
 その管原道真が死んで怨霊となった年に、平将門は誕生している。当時の人人は、この奇しき暗合に、おそろしげなる怪異の力を感じてはふるえた。
 九三〇年代は、東国では平将門が憑かれたように暴れまわり、西国では管原道真の怨霊が空をかけめぐって人人を悩ましていた。
 あろうことか、平将門が板東の地を制圧した日、一人の遊女が紙がかりして、八幡大菩薩が皇位を授ける。その位は、管原道真公の霊が取り継ぐ」と告げたという。(将門記)
 この話が、たとえ作り話であれ、いな作り話であればこそ、人人が将門と菅公とをどんな風な気分でとらえていたかが判る。
 古来、日本人はすぐれた人物の才能や経歴を尊んで、死後カミとして祀る風習があって、天神様とならんで信仰の対象となっている。
 最も有名なのは、神田大明神だろう。通力自在の将門の首が、おのれを討った俵藤太が京へのぼるのを追って空を飛んできて、力つきて落ちた場所が神田明神だということになっている。
 江戸っ子たちに愛され、徳川家の信仰さえ得ていた。
 千代田区大手町一番地の国税庁庁舎内にも将門の首塚が祀られている。将門の霊が祟りをなすので困っていたところ、時宗の一遍上人の弟子真教が霊を鎮めたといわれる。
 このほか、津久戸明神、茨城県岩井の国王神社、千葉県我孫子市の将門神社伝説とともに、亡霊を慰める怨霊神社は実に多くある。

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