軍師の辞表

 昭和四十三年と、五十六年から三年連続軍師を勤めあげた末永留記は、この春「辞表」を出した。
 軍師は、「相馬野馬追執行委員会」が選出する。いわば参謀総長である。実際に祭りに参加するし、騎馬軍団全体に号令を発する最重要の職席とされる。
「おれも八十一歳になったしなあ。体がもうゆうごどきかねえぐなっちまったんでわ、軍師と言えども、みんなの世話になんねばなんねえし、気の毒すっがなあ」
 淡々と語る口調の中にも、達観と諦念と、愛執とが感じられた。
 「昔がら一人一役ってゆってなあ、なんでもかんでもわ、出きるもんでねえんだ」
 自分に言い聞かせるような口ぶりで、語る末永の心境には、複雑なものがあるのだろう。
 末永は昨年の相馬野馬追まで、執行委員と審判長と中ノ郷騎馬会長との三役を兼務し、そのうえに「最長老」として「軍師」という名誉ある地位にいた。
 明治三十七年四月二十日生まれ。大正八年、十六歳で初陣に臨んだ。当時としては珍しい少年騎士であったという。
 「最近は物忘れがひどくなってなあ。ながなが思い出すのにひと苦労なんだでば」
 若かったころのことを、懸命に思い出そうとしているらしい。煙草のエコーを一本取りだして火を付けようとするが、指が震えた。今朝も近所まで用事があって歩いて出かけたが、疲れて寝て居たという。
 「ほんでもな。若い頃はおもしゃぐておもしゃぐって、たまんねえもんだよ」
 軍師となれば、若い騎馬武者たちは、祭りの朝には挨拶に来る。神棚には太田神社の妙見が祀られている。
 「若げえ時には、小高に近いがら、小高神社さ言ってまざったりしたが、中ノ号の騎馬会が出来てがらわ太田神社さ集まる」
 若者たち対するいつくしみが、長年の野馬追人生の中で培われたのであろう。続々と野馬追祭の後継者のあることに、満足の表情であった。
 「俺が審判をしてだ時に、審判の俺の眼の前で、石神の若い人の乗って来た馬が走って来て転ろがった。人間は落馬して怪我しねがったげんちょも、馬のほうが、前脚に鐙が刺さって命取りになった。馬は足が命だがんな。屠殺さっちゃんだ」
 「あどで、山田貢さんらと見舞いに行ったらば、その家では奥さんの産後の日が明げねえがったんだ。宵乗りの日まで待でど言わっちゃらしげんども、宵乗り競馬に出だぎで出だぐで、とうとう出っちまったんだな」
 祭りの最初の日まで、奥さんの産後の日が明けないのに、血の穢れの禁忌を破って出馬しての事故だった。
 「人の生き死にの時には、出場しねえのがならわしだ」という。で、末永自身も生涯に六回、出場しないで休んだ。それでも、こんなふうに語っていた。
 「野馬追で怪我すんなら、幸運だ。馬だって何処で何あっかわがんねえ。馬だって本望だべ。俺だって、こうやって俺だって偉い人がら見舞してもらえたんだがら幸福だ」
 末永は、あきれるほどの野馬追狂だった。そんな熱狂的な若者たちが相馬野馬追の主力なのである。

 昭和六〇年五月八日あぶくま新報

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