相馬市の甲冑師橘さとしさんは、同右の「野馬追行進曲」と全く同じ詩文で別な曲の楽譜を所蔵している。題名は「相馬野馬追」で、昭和十二年六月「野馬追千年祭に際して」と添書してある。作曲者は元陸軍戸山学校軍楽隊楽長補の山口豊作。発行謹納者福島県双葉郡浪江町紺野清輔、となっている。これも野馬追千年祭が生産した貴重な財産の一つだ。
 紺野清輔なる人物による発行で、浪江町・東英舎印刷所印行とある。「行進曲」の作曲者天野秀延氏は小高町桃内の人だから、地元のつながりで作られた楽譜であることが判る。
 天野氏は戦後に活躍した人物。戦後に雨後の筍のごとく誕生した新制の中学校や、民主主義教育で戦時中の「国民学校」から生まれ変わった小学校の校歌を依頼されて恩師の豊田君仙子の作詞とコンビで多くを手掛けた。
 自家自注があり、瑞雲台は幾世橋の城、とある。紅梅は小高の城で、六百年前には寝牛浮舟城と称したが、後に紅梅山入舟城と改名。別所とは(南相馬市原町区)太田の別所の館のことである。
 漢文調、美文調の解説をこころみた最後に「瑞雲台の主君平朝臣昌胤公二百年祭に臨みて 紺野生記す」と筆を措き、つづいて
 上海陸戦隊司令官植松将軍凱旋の邦賀に野馬追祭出陣の折によめる 清輔
 益荒男の猛く直しき心をは 御国の華と人や称えん
 大将軍神を祀る幾世橋妙見社に馬場貫一氏が名匠貞行の龍馬の額を奉納の賀によめる
 御社に勇める駒をとどめをき 幾世かはらす仕へまつらん 清輔
  昭和十二年の野馬追千年祭のにぎわいの一つであったことだろう。
  しかし・・・

平成5年7月号「台地」

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