相馬昌胤の略伝はおおむね次のとおりだ。
 一六六五年(寛文五年)~一七二八年(享保十三年)。相馬藩全盛期の第二十一代藩主として金ケ森堤の構築、青根場水路などの土木事業を行う。神仏に帰依し、諸国の有名寺に代参を立て、奉額、灯篭の奉献などにつとめた。領内の自社で昌胤に係るものが多い。書をよくし、若の系譜にも名を連ねている。元禄十四年(一七〇一年)北原御殿に引退、信仰と文学にすごす。みちのくにあって公家のみやびにあこがれた元禄の殿様。
 (福島県人物風土記・青田暁知による)

 相馬藩の軍制は武田流である。古来の相馬野馬追に武田流の兵法という新しい血を注ぎこんだのは、第十九代相馬藩主相馬忠胤という名君であるが、二十一代藩主の昌胤は忠胤の改革を引き継いで野馬追の作法を整備し、元禄時代二空前の盛況をもたらした。いわば相馬野馬追の振興にあたっての遠い時代の功労者である。
 その昌胤が、何故に金に飽かせて怪人丹下左膳を使い、やがて部下である左膳を邪魔になって殺そうとする悪辣で骨董趣味の化け物のような主君相馬大膳亮のモデルになったかというと、昌胤の側近に内它公軌(うちだこうき)という人物がいたからだろう。
 内它公軌は近世における高名な歌人木下長嘯子勝俊(豊臣秀吉の室北政所の甥にあたる)門下の双璧として山本春正とともにならび称されたほどの人物なのだが「生没年不詳。京都生まれ。通称十右衛門。一七〇三年(元禄十六年)に奥州中村藩に招聘された」(コンサイス人名辞典日本編)という人物である。著作に「藻虫集」がある。
 この人物が曲者である。
 「亀屋何某の味噌屋肩衝の茶入れを、小判金千枚にて調ひ、右代銀を車に積みて白昼に引廻り、請取をいたし候と申伝へ候」
 というエピソードが「町人考見録」なる書物に見える。
 肩衝というのは茶を入れておく容器の一種で、骨董趣味の者には、たまらない逸品というのがある。そうした値段のつかぬような品に千両もの退勤をかけ、しかも市中を練り歩いて見せびらかしながら受け取りに行くというのだから、そのいやらしさはこのうえない。
 元禄時代ともなると、そういう豪商がずいぶんいたのである。
 「豪富を恃んで驕慢不遜、非常識の誹りを免れないが、これはまた豪気闊達思ひのままに振舞って世間をおそれぬ変動期の富商の遺風ともいへやう。或は家産の軸や人丸像を入手してその開きの宴を催したり(遺遊愚抄)、好事風流の生活を送ったらしい」
 と「国語国文」(昭和三十五年十一月号で評するのは小高俊郎共立女子大助教授(当時)だ。
 小高氏は相馬彪胤、岩崎敏夫、小倉鐵夫らの諸氏から相馬藩関連思料を借りて右記の「内它公軌とその子孫」という論文を書いている。
 公軌という人物、尋常ならざるエピソードの道主であるが、京都では絶大な評判があったらしく、都の文化にあこがれた昌胤がそこを買って中央から遠く離れた奥州相馬(中村)藩に召し抱えた。
 とまり、相馬大膳亮という悪役キャラクターは、この公軌のイメージと地方大名の昌胤を足して二で割ったようなものなのだ。

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