堀内秀之進は、相馬の首府になくてならない。伝説の人物だった。昭和32年7月12日すなわち野馬追祭礼の日に、不在の伝説中の人物は陣貝の吹奏によって見送られた。それ自体が伝説だった。
 「現代相馬人略伝」によると、次のように記録されている。
 明治十九年一月二十日に、藩の門閥、堀内覚左衛門守長の長男として生まれた。明治二十四年三月、中村高等小学校を卒業。
 明治十九年三月、十一歳の頃から馬術師範村木公定の門に入り、大坪流の馬術を学び、同三十年には既にその免許皆伝の腕となり大坪流馬術師範となった。
 明治二十四年十六歳の頃から野馬追に出陣、毎年必ずこれを欠かさず、昭和十三年七月の野馬追まで継続した。野馬追は相馬藩主相馬氏の名代として出馬し、藩の軍歌でありまた相馬の国歌とも言われた相馬流れ山の曲を自ら指導して士気を鼓舞した外、相馬民謡師範として多くの門人の育成に努めた。
 昭和二年十二月に宮城、福島の両県下の馬術と民謡の教えを4受けた門人等が、大坪流馬術師範相馬民謡師範堀内秀之進先生報徳碑を建立した。氏は、野馬追を盛んにし、相馬民謡を今日あらしめた大功労者である。
 明治三十七年二月から県立相馬中学の書記を長い間勤めたが、昭和八年に飯豊村収入役に乞われて就任。村政にも尽くすところがあった。
 昭和三十二年七月十二日、野馬追祭の陣貝の音を聞きながら安らかに永眠した。
 行年八十二。遺言によって民謡歌手鈴木正夫等多数の門人相集まり民謡流れ山の曲を奏し、異例の民謡葬が厳粛盛大に執行された。