昭和二十年原町国民学校日誌。
八月十二日。日曜日。晴。八二(註。華氏)
一、午後四時十五分警戒警報発令。
一、午前六時空襲警報発令間モナク解除セラル
「原町空襲の記録」という本が出来上がってからも、なんどもミド​リ伯母を訪ねて、この時の話を聴きだし、そのたびに、泣かせた。
「あれまあ、豆を取りに行ったなんてことまで、書いたのかい。も​っとちゃんとしたところを書いてもらうんだったな」などという。
スナップ写真か、ビデオを撮影したかのような印象だっただろう。​取材で聴き書きという手法による対象になることは、ふだん経験し​ない。
普段着でなく、「ちゃんと」した服装で、写真に写るような感覚を​言ったのだろうが、自由な雰囲気の中で、すなおに、自然に、記憶​のままに語った、加工しない画像と感情とが、そのまま文章に定着​したのだと思う。
これまで、原町に空襲があったことは知られていたが、公的な記​録は何もなかった。
原町市史という分厚い役所が発行した郷土史に、1ページに満た​ないほど書かれていたが、日付が間違っており、人数が間違ってお​り、とても歴史記述ともいえない
代物であった。
また、多くの随筆などで「防空壕で一瞬のうちに6人が即死した​」などと、いい加減な記述で片付けているものがあって、それが間​違いを伝播させてきた。
従兄の二上郷嗣は、とうじ、少年だったが、臨終の父親の肉体に​触れている。
「たしかに父は生きていた。俺は、父の体を触ったのでよく知っ​ている。外傷はなかったんだが、表面の皮膚を通して、激しく内臓​が波打っているのを、いまでもこの指が覚えている」と言うのだ。
だれも遺族の話をきちんと聞く作業をせずに、町民の風聞をその​まま書き、そのまま語ってきた。
昨年の3・11津波で、南相馬市民は66年ぶりに、原町空襲の​ときのように、アメリカ軍の艦載機の空襲を避けて、山間に疎開し​た。
ふたたび風聞で書き残したり、語ったりするのだろう。
新聞で読んだ記事を、あたかも自分の体験のように語るのは、目​に見えている。
昭和56年当時に、高齢になっていた人々は、むしろ、書物やテ​レビや映画の影響を受けていない。自分の体験を、まっさらなまま​に語ってくれた。
6人の機関区殉職者の遺族のうちで、妻本人が生き残っているの​は、いまや二上ミドリひとりになってしまった。
2月16日の東北最初の空襲犠牲者となった4人についても、す​べての遺族から具体的な最期をつまびらかに聞き、記録した。
数年前、数億円をかけて、原町市史という膨大な史書が刊行され​たが、いくら金をかけたとて、取材は、もうできない。すでに多く​の高齢者が死んでしまったのだ。
お盆で集まる機会もあるだろう。
いまのうちに、家族が元気なうちに、人生の要点を聞き出してお​くことを、みなさんに勧めたい。

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