生きていてよかった
  原町空襲の記録

七月五日。朝から蒸し暑い。時間が欲しかった。この夏中に、一つの時間の流れを終始体験しておきたいと思っていた。そのために取材の時間が欲しかった。が、容易でない。寸暇を惜しんで各方面に電話したり、手近かにある記録を読みふけったり。数少ない機会に空襲犠牲者のご遺族や、空襲体験者の話を聞きに出かけた。
志賀照雄氏夫人ホシノさん。
小林安造氏夫人トクさん。
それぞれ実家や勤務先の相馬農業高校のすぐ近くにおいでなので、折りを見て伺った。
静かな、平和な暮らしの中にその人々はいた。長い、つらい苦労がむくわれたかのように、みな異口同音に「生きていてよかった」という。
「死んでしまった人は、こんな苦労をしなくてすんだのだから、生き残った自分より良かったのではないかと考えたこともありました」と死がホシノさんは語る。
「でも、こうしてやってこれたのもあの人が見守ってくれたからなのでしょうねえ」
「みんな、お互い様なのですから、よくやったと思いますよ。主人を亡くして、一体明日からどうやって暮らしたらいいのか分からなかった。あの頃は、みな子供がたくさんおりましたからねえ」
小林トクさんもまた同じ感慨を語る。
「子供の足袋を作りますでしょ、それが一人や二人じゃないですから、いくつ作ってもきりがない。物はなかった。食べる物も着るものも。そんなせいか、息子は親孝行でしたね。苦労を見てるからなんでしょうねえ。
七月五日。夕方五時から駅前まつながレストランに、高校の教員有志が集まって、原爆映画の上映会の準備のための打ち合わせ会を持っていた。私も出席した。
若い教員たちが共同で原爆映画を購入し自ら上映会を開いて反核反戦の運動を繰り広げる、いわゆる10(テン)フィート運動の、一齣である。
私の頭の中には、空襲体験者の証言が残像となって残り、そのイメージが容易に去らずにある。
フォークランド紛争があり、レバノン情勢の急変が伝えられ、中東に火種はくすぶり、軍縮国連は雲行きがあやしい。
現実の方が、はるかに華々しくきな臭く、危機的状況の度合いを高めてゆき、個人の営為を卑小に見せる。だからこそ、それに対抗するかのように今年の軍縮国連総会に向けて世界中の「無名」の個人が立ち上がった。
前述の渡辺モト子さんは、結局アメリカ大使館のビザを発行してもらえず、予定を変更してカナダへ向かった。そこで反核、反戦の運動家たちと会い日本の大衆を代表して意見を交換した。
今は、郡山市内で、事後活動をしている。電話を入れると、七月末から八月上旬まで郡山うすい百貨店で地元の高校教員らが「太平洋戦争と郡山空襲展」をやるという。
私も八月に原町で「原町空襲展」を予定していたので資料交換などを約束した。

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