無人の町

門馬日記「七月十六日。釜石、艦砲射撃を受ける。十八日。水戸日立砲撃。二十日。夜半、福浦沖で砲声いんいん。余は連日の疲労で目覚めず。裏の七十七銀行支店長に起こされる。起き出してみれば町民の大半は石神方面に避難し町内無人の状態也。」
この日記を引用しながら、民友連載「玉砕の島」は語る。
「戦局が悪化し、危機が刻々と迫ってくると松永ハルさんは当時三十五歳。記憶によると「町民は避難または山間地に疎開を開始した。しかし私たち四十歳未満の主夫は、郷土防衛の任につくということで疎開してはならない」とされていた。」
当時石神二小学校長鈴木忠徳氏手記は、
「戦況は益々不利になった。やがて艦砲射撃を加えて来ると言う情報が流れて来た。太平洋岸の経済上軍事上重要な所は既に攻撃されていたので、原町の航空隊も何れは目標になることは当然だと思われた。そのため部落の人々は夜になるとぞくぞく西方の山間部に逃避するようになった。夜になるとあたりは寂として人の気配がなくなる。無人の境は誠に淋しいものだった。もちろん校長一家は避難などは許されない。夜の警報が鳴り渡れば黒ずんだ校舎を眺めながら警備に当たっていた。」
ついに、七月二十一日には、県の疎開命令が出たという。
「▽二十一、二十二日=珍しく来襲がなかった。この間、県では浜通り住民に対し疎開命令を出した。疎開を命ぜられたのは中村、原町、浪江、富岡、四倉、植田など海岸に近い町の人々、疎開するのは防空決戦に参加できない老幼婦女子となっており、八月十五日までに町から退去するよう告示された。つまり小学生を含む子供、四十歳以上の女性、六十五歳以上の男性、病気療養中の人々などとなっている。」(民友紙)
さあ、今度は原町にも来るだろう。町民が改札に殺到したのだ。
並ぶ者、割り込む者、切符を買う者。荷物いっぱいぶらさげている者。だれもが生命を惜しんだ。
すると、パカパカパカッと蹄の音がする。騎馬に跨った憲兵たちが、馬上から鞭を降るって、割り込むよな人を打ちすえた。
あたりを支配しているのは、われがちに助かろうという一義的な意識だ。
切実に助かりたい一心で原町を去るのである。他は徒歩で高ノ倉や石神方面の山山に隠れるために早朝から出発していた。
人っ子ひとり、とは言わないまでにも、まるで無人の町のようだった。

小学生だった村田明さん(青葉町)は、このような記憶をもっている。
「町まわりの巡査が、人気のない道路を自転車でめぐる。旭公園の角のメガネ屋(現在の富士写真店の場所にあった)で、おっくりかえしひっくりかして、様々なメガネをかけて遊んでいるのを見たことがあるよ。」

「これが憲兵というものか」と松本持さんは思った、という。
いったい誰が敵軍上陸などというデマを流したのか、殺気立った憲兵が抜刀して一軒一軒噂の出所を探してまわったという。
官憲などの比ではなかった。

七月の、ある晩、灯火管制下で、はらわたにしみわたるような艦砲射撃の響きを原町町民の誰もが聞いた。
日立あたりの艦砲射撃が聞こえるものだろうか、と疑問を呈する人がある。日立の工業地帯は七月十八日に攻撃された。
夜中に聞いた砲撃とは、七月二十日夜の、アメリカ潜水艦によるものだ、と林七郎さんは説明する。
「監視哨に連絡は来てたんです。大湊の造船所で出来上がった船舶・哨戒艇くらいのものですが、艤装するために横須賀へ回航する途中に、福浦沖でアメリカの潜水艦にやられているって。」
この砲撃は、浜通りの艦砲射撃と、その後の米軍上陸の前触れのように思われた。

家財道具を持って、町民の多くが逃げ出した。壮年の留守部隊のほか、町はもぬけの空になった。

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