検査掛詰所

機関区構内の検査掛詰所は「くら」と呼ばれていた大きな機関車の車庫の北隣にあった。「くら」には三本の線路出勤が呑みこまれるように導かれ、黒金の機関車たちはここで休息するのだ。
十台の機関車が機関庫の中にいた。
検査掛という職は、これらの機関車の保守管理にあたるもので、給油や走行距離をチェックするなどの内容であった。不備があれば技工に命じて整備させる。もし機関車の不備によって運行に支障があれば、それは技工でなく検査掛の責任となる。
走行五千キロごと、月に一回は交番検査という定期検査がある。
これらの仕事を担当するのである。彼らは車両の一切の責任を持っていた。勤務は一昼夜二十四時間交代であった。
時間は八時であったが、検査掛は七時までに職場に出て、すでに仕事を始める。
「二上さんは、一年あたり前から、この戦争が敗けることを心配してましたよ。空襲の寸前までいっとられました。あの頃は、みんな最後には必ず勝つって信じこませられまして、そう思ってたんですが、二上さんはずいぶん心配してましたね。私なんかも一年前に兵隊にを除隊になって帰ってきてたんですが、日本は特別なんだ、再gには必ず勝つんだなんて思ってましたからね。
三百人くらい働いていましたよ、原町の鉄道関係では。あまりいなったです、日本が戦争に負けるなんて話してたのは。いや、反軍的なことではなくってね。憲兵にひっぱられるような批判じゃなくて、本当に真剣に心配してたんです。
こんなふうでは、どんなんだろうって」
伯父二上兼次とオナジ職場の、同じ防空壕で奇跡的に助かった堀川清隆さんは、空襲当時の記憶をたどりながら、詳しく語ってくれた。
「あの朝ね、六j半ごろ、うちに来てくれたて、当時としてゃ珍しい手に入らないような桃か何かを持って来てくれたんです」
「きのう、汽車が停まってしまったから、戻ってきた」と言ってました。
「今日まで休みをとってけれども、こんな具合(空襲で機関区も大変)だから出てみるよ」と言う。
年は違ってましたが、気持ちは通じてました」
検査の班には、紺野義身(故人)、二上、堀川、酒本、芦口などの鉄道員がいた。二上はその日休暇扱いであったが、仕業検査に出た。
十日の朝も、午前七時には仕事が開始していた。空襲は覚悟の上であった。しかし今日はどうなるのか分からない。
仕事が始まってすぐ、サイレンが鳴った。午前七時を少し過ぎた時であった。
「来た、来た、来た」
誰かが言った。
「空襲だ!」
東の空から黒い点々が見えた。
「一機、二機、三機、四機、五機、六機、七機、八機………」
敵機の数がをかぞえる者があった。
「なに! そんなに来たのか!」
敵機はうんかのごとくやってきた。
「数えきれねえや!」
一斉に退避行動に移った。
次々に防空壕めがけて走り出し、飛び込んだ。
堀川さんは「軍隊帰りで若かったから」
すこし遅れて防空壕は、建物の東側にあった。南に入り口があり、北側に爆風を逃がす出口があった。十人位の人間がはいれた。
技工手伝いの新妻嘉博さんが、まだ壕に入らずにいたので、堀川さんが声をかけた。
「何してるんだ。防空壕に入れ」
壕の中央に、助役小林安造さんをはじめ、高橋直さん、酒本幸蔵さん、死が照雄さん、新妻嘉博さん等が入った。壕内には小さなイスが運びこまれて、それに座っていた。
芦口寿郎さんは壕の奥にいた。
紺野義身さんと堀川清孝さんは出口近くにいた。この二人はそれぞれ海軍と陸軍の兵役を経験していた。二上兼次は、堀川さんの背後にいた。
壕内は十人の男で窮屈なほどだったという。横幅一間・奥行二間ぐらいの広さである。
堀川さんは語る。
「まず検査区の方がやられた。あの空襲の戦法はね、最初に機銃掃射をして、それから二百五十キロ爆弾を投下するんですよ。私はたまたま防空壕の入り口から首を出して見て居て目撃したんです」
機関区事務所がやられた、と思いました。そっちの方角ですから。
機銃掃射の直後、二発の爆弾が、実にきれいに並んで飛んでくる。そりゃあ見事なものでした。

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