昭和二十年八月九日

昭和二十年八月九日、米機動部隊の艦載機が飛来した。
「ドカーンという音ともに黒い煙がもうもうとたちのぼりましてね。無線塔の全体がすっぽり覆われた」
原町第二中学校の紺野教頭は、昭和五十六年五月取材の折に、校長室で語ってくれた。
校長室の窓からは、中庭越しに無線塔の姿が見えた。ほぼ中腹に巨大な弾痕がある。艦載機グラマン・ヘルキャットの記念的偉業である。その無線塔は今はない。
村田末助さんは、その時農作業で表に出ていた。
空襲になって機銃掃射してくる敵機は、地上を動いているものはすべて狙ってきた。近くに積んでいたわらばせの蔭に身を隠しながら、時折は様子をうかがっていたところに、ものすごい音がとどろいた。
末助さんは、被弾の瞬間を目撃した。
「弾が当たったら爆発して煙が塔の周りをぐるぐる渦巻きながら昇っていった」
飛行機が超低空で機銃掃射しながら通過してゆくたびに、畑の上に何列かの土埃が走った。そのすぐあとで頭上からバラバラバラバラ大量の薬きょうが落ちて来る。そのうちに藁ぶき屋根の家が燃えだした。やっとの思いで消し止めたあとで、柱などに突き刺さった機銃弾を取り出してみると、それは鈍い光を放って、掌に重かった。もしも、もっと近くに撃たれていたら自分の生命を奪っていたかもしれない弾であった。
無線塔のすぐ根本に住んでいた遠藤すえのさんも、当時の記憶をもとに、こう語っている。
「ほんとうにこわかったわア。B52だかB25つうんだか……飛行機は無線塔めがめて飛んで来た」
「おら、防空壕の中に入ったわヨ」
「ほんいなあ、ムセンさえなければ、こんな飛行機が来なかったのになあ、と思ったんだわ」
前述の鈴木梅香さんの自宅は、無線塔の真南約一キロの所にある。遮蔽物は何もない。敵機が駅のあたりや無線塔目がけて攻撃する様子を、呆然と見て居た。
「パッパッと、火花が散るように弾が当たるのが見えました。ここ(自宅)から無線塔は丸見えだから、何度も何度も駅のあたりが狙われた」
門馬太氏日記は語る。
「八月九日、朝より午後四時半頃まで、数回に亘り艦上機襲来。各地被害甚大。原町は午前十時頃、原紡・帝金・駅・飛行場に爆弾を受け死傷者発生。午後二時再び来襲。小型爆弾及び十二・七ミリ機関砲の掃射を受ける。雲雀が原農場では各畠の隅々に退避壕を設けておいたので一同退避し一名の負傷者もなし。初めの頃と違い、生徒の逃げ足の速くなったのは驚くばかり也。午後五時頃突然原紡より猛火天に冲す。応援に行ったが手のつけようもない。各所に爆弾で穴があく。直径十メートル位あり。地下水忽ち溜る。午後七時ニュースはソ連満州侵入を報す。」

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