報徳殿 原町昭和元年

昭和元年はわずか六日間。七日目からは昭和二年と数える。その年頭に話題にのぼったのは、石神村役場として使われていた旧二宮家の見物が役場新築のために大正末に不要となり、はした金で売り払われてしまうというニュースだった。
有志はこれを買い取り、報徳殿と名づけて移転し、夜の森公園の西に相馬藩復興の一大事業であった二宮仕法を末永く記念して後世に伝えるべく保存展示したのである。実際に移転されたのは昭和五年のことだが、用地は石川組原町製糸所の工場主石川保次郎が提供し、建築や運営の費用は岡和田甫が中心となって奔走して賄った。
岡和田はこの費用の捻出のために二本の活動写真の製作に関わることになる。岡和田の娘婿にあたる日活監督の高木智正が撮った「川中島」(昭和四年)と、「霊山の顕家」(昭和五年)である。
「川中島」の信玄には岡和田甫自身が扮し、「霊山の顕家」では主役の北畠顕家には長男岡和田一男が扮し、助演は福島市長の佐藤澤が伊達行朝役になった。霊山山麓や雲雀ヶ原で撮影が行われた。時代劇に欠かせぬ騎馬やもちろん相馬野馬追の地元の人がエキストラ武者となって扮したのである。
「川中島」は昭和四年二月に宮中で天覧に供されたという。
野馬追武者たちの誇りは思うべし、である。

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