原爆体験を掘り起こす

反戦・反核の大きな運動が高まった昭和五十七年の夏、われわれの住む小さな町にも、その波の余波は及んで、五月に原爆映画会が市文化センターで行なわれ、それが(公民館によって)妨害されたとか、(館長が)いや妨害していないとか、かなり低次元な話題だけが、もっぱら私のような者の耳にも届いてきた。
先年、小高町公民館では原爆写真展を見ていたし、原町で行なわれたものは見なかった。主夫や子供が多く参加して、成功だったという朝日新聞の記事を読んで安堵した。
一部政党の人(つまり社会党共産党)が言うような妨害は、実はなかった。ただちまらぬ行き違いがあったにすぎない。「妨害」という言葉が、かつぎあげられてしまう現象自体が、原爆問題が政治で毒されている証拠なのだ。
原爆映画に触れた少年少女やおかあさん方はきわめて素直に反応した。それらの感想が、感想文集にまとめられたものを読むと、救われる気持ちになる。
磐城高校の内部で編集された原爆乾燥文集が、外部の市民に渡ったという「事件」が、朝日新聞紙上に大きくとりあげられて、その文集のコピーだという代物が、高校の教員たちの集まりで機密文書の如く手渡される場面を目撃する機会に恵まれた私は、何やらほほえましく思われた。
そんなことが問題視される現象自体が、現在の教育界がいかに硬直しているかの証明になる。
七月十六日、原町市民の関心はヨークベニマル駅前店の進出に集中したようだ。記録的な人出が、限られた面積の床を通過した。雑踏は数週間続いたが、一段落した頃にテナント出店している八牧将勝氏を訪問した。
かつて「我が家の三代・八牧家の百年」という冊子の編集を八牧通泰氏より依頼され、その時氏の弟将勝氏の長崎原爆体験記という手記を扱ったことがあった。その手記を転載させていただくために出向いたのである。
原爆体験の発掘に奔走されている山崎健一教諭に刺激されて、私は「空襲体験」の発掘を続けていた。地域の戦災だけでなく、日本全国の空襲を背負って、原町市には戦後各地から住みつかれた方々がおられる。その空襲体験も縦横にに紡ぎ出せれば日本全国の空襲戦災地図が作り出せる筈なのだが、その可能性だけを胸に擱いたまま、まずは故郷の空襲についてまとめた。
また、地球上の広範囲の戦場に散らばって地獄を見て来た郷土兵たちの体験も、紡ぎ出せれば、壮大な従軍庶民史が可能だ。
しかし、それらは故人のなすべき仕事の領域を越えている。
福祉事業所で、遺族名簿を見せて頂いた。(担当は樋山広一氏)戦没者の死亡地域を追うだけで、ほとんど終日を必要とする。
八月一日、保健所に電話をして、原爆手帳の持主の管内の人数を教えていただくまで、こちらの趣旨を何回も別な人に対して説明しなければならない。説明し終わると、それでは担当の者にかわりますから、という。数人の担当者を経て、相馬双葉管内で十八人という数字であった。
プライバシーに関することなので、氏名は控えさせて下さいという。微妙な職域にある人々の苦労は大変だな、と思う。
しかしながら、その時すでに私の手元には、多くの原爆体験談が集まりだしていた。
原町高校の七七年文化祭では、立派なパンフレットも公表されている。
広島で軍務についていて、建物のかげにいて助かったという桑原馨さんの話。爆風で二十メートルも吹き飛ばされたという高山甫さんの話。故郷広島で被爆し、原町に移り住んでいるAさん。素手で死体を担架に乗せて運んだ体験をしたBさん。飛騨の関節が変形して職にもつけないというCさん。長崎で被爆した八牧将勝さん。など等。
若い高校教師の手で、原爆体験が発掘されつつある。反核・反戦の良心的行動に応じて、氏名を公表して自分の体験を語ってくれる人々がいることが私の心を大きく揺する。
1983年 昭和史への旅

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