ガ島での正月  昭和十八年

 昭和十七年八月なのか。米軍がガダルカナルに上陸した日、天皇裕仁は日光にいた。開戦以来の心痛の日々が続き、顔色すぐれないため、大本営の立案による宇都宮で空挺部隊の訓練を視察するという名目の避暑行であった。
 この時の天皇の宿舎は現在旅館になっている。中学校三年の修学旅行で泊まったことがある。宿の人の説明で、陛下が戦時中避暑のため使ったという話を聞いた。そこで水洗便所というものを初めて体験し、説明されずともぶら下がっている鎖は、やはり引くものと思って弾いてみる。すると水勢の凄まじいこと。仲間の一人は、この鎖が切れるほど引っ張った。
 ああ、あの日光か、と戦記を読みながら思う。
 昭和十七年の最大のニュースは日本にとっても米国にとっても、いや世界にとっても、やはり辺境の誰知らぬガダルカナル島の攻防のことだろう。
 餓島、とさえ呼ばれた南洋の地獄から、生きて帰ってきた人もある。
 上野清さんを萱浜に訪ねて聞いてきた。
 「私は昭和九年に現役で一度入営し、二度めは昭和十六年十月に応召しました。
 仙台の第二師団の司令部付きでした。
 十二月の八日は、千葉の習志野に部隊が移動していて、仙台には別な留守部隊が入った。十七年の一月十九日に、宇品港から乗船しました。
 台湾の高雄に一週間ほど寄留し、ジャワのバンタム湾に到着したのは三月一日でした。半年後の九月十九日に、今度はバタビア湾を出てガダルカナル島へ向かいました」
 日本軍が最初に作ったルンガ飛行場が八月に米軍の手に渡ったので、それを奪回するためであった。
 「丸山政男司令官がね、ジャワだけじゃ手柄にならないから、もう一つ作戦に参加してと思って居たらしい。我々は内地帰還する予定だったが、取り消されてガ島へやられた」
 六月にはミッドウエー海戦で日本の連合艦隊が惨敗し、戦況は転換していたのだ。
 第二師団はラバウル経由でガ島へ向かった。
 「私たちが上陸したのは十月十七日。エスぺランス岬でした」
 それから三か月半の間の闘いは、飢餓との闘いであった。
 すでに一本木支隊、川口支隊が、全滅また敗北していた。兵力の逐次投入という最悪の戦法のために、いたずらに兵が殺された。
 制海権も制空権もない戦場へ、食糧も火力もわずかな攻撃隊を送り込む。
 「上陸したら、先進隊の兵に案内された。安全な場所に連れて行ってもらえるんだろうと思ったら、次の朝になってみると、荷物が盗まれていた。いたる所で兵隊が死んでるのを見ましたよ。水を飲もうとしたまま倒れてる死体がだいぶあった。道路傍らにすわったまま爆撃でやられたのとか。
 総攻撃の時(十月二十四日)の雨は凄かった。すわってる司令官の下を、雨水が川のように流れてたのをおぼえてる」
 この第二師団夜襲は失敗し、若松歩兵二十九連隊も連隊旗と連隊長が行方不明となり、翌日の再攻撃でも同連隊は壊滅的打撃を受けた。
 この連隊旗とは、戦前の軍にとって天皇の分身というシンボル的神器なので、これの喪失は連隊全滅を意味する。二十九連隊旗は土中に埋められたのだそうだが、ほとんどの兵もまたガ島の土と化した。
 上野さんの軍発行履歴書には、
昭和十七年十月十七日ソロモン群島上陸
      ガ島エスぺランス
昭和十八年二月四日ボーゲンビル島エレベンタ島へ退却
との二行が、ガダルカナル島での作戦のすべてを暗示しているが、この行間にこそ、悲惨な地獄があったのだ。
 匙一杯のコメの配給に、草や木の根を足して食いつなぎ、そしてついにコメの配給もなくなった。
 蛇も喰った。五十人もの人数が喧嘩争いして奪い合って喰うのである。
 昭和十八年の正月には、タバコが一本特配された。
 飢餓との戦争であった。作戦などというものではない。
 二月四日、救援の軍艦に乗り込むのに、たった四五段の梯子段が上れなかった。それだけの体力さえなかった。
 「突撃の時に、真ん中にいる奴はバカだ。一番狙われる場所だ。俺は、必ずどっちか両脇の位置にいて助かってきたんだ」
 「突撃よりも、塹壕の中でじっと待っている方が恐いんだよ。穴から出て、ワーッと突っ込むほうが恐くない。だから東北の兵は犠牲が多かったように聞いているよ」
 何人かの人の、突撃の体験を聞いた。ゴボウ剣をつけ、安全装置を掛けたまま、引鉄を引かずに突っ込む、という。
 白兵戦というもものを知りたかった。機関銃という近代的火器の前に、精神力だけで立ち向かうという行為を、たとえ書物の記述のみによって思い描いても、とうてい耐えられない。
 「私は、突撃攻撃は体験しなかった。ルンガ飛行場めざして、大迂回作戦になったもんだから、密林を進むのに難渋する方が大きかった。ガダルカナルという島の全部で戦闘してた訳へはないんですよ。北の方かの飛行場の近くだけで、アメリカの方から掃討作戦に出てくるということはなかった。こちらからつっこんで行って、みなやられたんです。北の海岸沿いの道を選んだ部隊は、沿海のアメリカ軍から艦砲射撃された。あんまり当たらないね。椰子の木に当たって倒れたのに、椰子の実がたくさんついてる。それに日本軍は群がって飢えをしのぐようなことをしてた。
 戦争だなんて言ってもなあ、食糧持たないで上陸させられるんだから、ひどいもんだ。
 補給の潜水艦がたまに来る。コメを入れたドラム缶を、海岸近くに運んでくる訳だ。
 それを取りに行くのに、一週間もかかるほど歩かなきゃならない。体力がなくなってるから、今度はあまり重い荷物は持てないほどでなあ。
 コメの配給は、スプーン一杯ぐらい。それでも六日間ぐらいで切れてしまった。
 戦闘で死んだんじゃないんだよ。みんな飢えで死んだんだ。哀れだったのは、水を飲もうとして川のほとりまで来たところで死んだ連中だね。みんな、ほっと安心して、水を飲む気力もなく、そこで息絶える、っていうのが、本当に多かった」
 スコールのあと、形ばかりの野戦病院を作ってね、その近くに穴を掘って、死体を片付けた。
 遺骨収集団が最近行って見つけた白骨ばかりの場所っていうのは、あそこじゃないのかな」
 上野さんは助かった。運、というのだろう。管理部設営部という、つねに参謀の身辺の部署にいて、ほかの兵隊よりも安全だった。
 原町に生まれ育った者で、昭和の御世に徴兵される年齢を迎えれば、兵種にもよるが、仙台の第二師団か若松の歩兵二十九連隊へ入営する。戦時下であれば現役のまま戦地にやれ、または召集で再度兵隊にとられる運命にある。
 郷土部隊が投入された作戦は、今日すべて判っているから、日中戦争ならば南京で中国人を殺す側に立たねばならず、大東亜戦争ならばガダルカナル島あたりでシャレコウベになる確率がいちばん高い。
 体力やその他の事情で兵隊にゆかなくとも、日本全土で空襲に遭って死ぬ確立も等しく持っている訳で、誰が何処で安全ということはない。
 私が戦争のことに興味を持つのは、何のことはない。単純な発想なのである。
 もし自分が戦前の日本に生まれていたら、どんな運命をたどったのだろうか、ということだけなのである。
 中曽根政権が発足したことだし、二上君もうまくすると、案外近く軍隊経験ができるかも知れないね、などとブラックなユーモアを言う友人がいる。
 昔、特高をやっていた近所の小父さんも、指の間に鉛筆を挟んでね、だいぶ若い連中に申し訳ないことをやりました、でも思想の連中では、ありゃ一番軽い方法でね、などと笑いもせずに言うときがある。
 あんまり、おどかさないでください。

1982年「昭和史への旅」

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