ガス祭りにて

十一月二十三日。勤労感謝の日は秋晴れに恵まれた好日だった。
午後十時、旭公園で愛犬コンテストが始まった。市民体育館では相馬ガス株式会社の「ガス祭り」の最終日。自転車が駐車場からはみだし、パトカーが常時拡声器で客を誘導している。回転焼きの屋台や、オモチャを並べた露店がお祭り気分を盛り立てている。風呂釜やガス湯沸かし器などが所せましとロビーに展示されている間を、ひしめくように客が値踏みしながら往き来している。会場を除いてみた。
カラオケ大会が真っ最中だった。おでんコーナーから湯気が立ち上り、香ばしいにおいがたちこめ、お土産コーナーにも人だかりができていた。
舞台上の審査員席を見ると手う展開の各種お偉方やら新聞支社長など市内で見慣れた顔ぶれがあった。舞台中央の出演者の歌に気をとられていたが先程からの司会者の声には聞き覚えがある。
あれ。あれは、もしかしたら……。
「次は相馬市からおいで下さいました〇〇さんです。涙、涙、並と絶唱する、おなじみ女の出船です。それではどうぞ!」
伊賀慶一郎氏であった。
思いがけない場所で思いがけない役であった。
昭和五十二年に青木染工が閉鎖したため、伊賀さんは相馬ガスに再就職した。
一つの工場での生活が毎年の暦にしたがって進行していた。その記憶は、その工場で働いていた人々の抜きさしがたい習慣となって残った。
こんにち残る原町紡織の写真の中に勤労感謝の日の組合行事を撮ったものがある。
「あの工場には、何でもあった。修繕専門の大工が居たし、行事がある時には看板から何から全部自前で作ってしまえた。面白い所でしたよ。」
相馬ガス(株)という会社に再就職して今度は「ガス祭り」のカラオケ大会の司会をやる巡りあわせになった。看板も自分でペンキを塗って仕上げた。
「昔はよくやった。お父さんにお聞きになったらわかるでしょ。楽団をおやりでしたからね。私は慰安会とか歌謡ショーなんかでずいぶん司会をやったもんです」
勤労感謝の日というもののネウチが最近ではあまり感じられないが、戦後の労働者にとっては昂揚する日であった。勤労という言葉が新鮮であった。
娯楽が他になかったから、手作りの舞台が何よりのショーになった。
出演する方も観客の方も楽しんだ。
私も子供ながら行ってみた国鉄水戸鉄道管理局原町機関区の家族慰安会の雰囲気は覚えている。父の世代の「勤労」精神を東特思う。現代に見当たらない美徳を称えて、ここでは戦後の原町紡織の慰安会のスナップを掲げておこう。
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