ナチス独のオットー大使来る

無用の長物だった無線塔は一本だけ残った二百メートル鉄塔とともに寂しく佇立していたが町に払い下げられ、のちに鉄材は軍に献納された。
昭和十七年、いよいよ物資は欠乏してきた。中村、原町でも金属回収が叫ばれ、「米英を駆逐せよ」のスローガンで、駅前通りの商店の看板にあった横文字がヤリ玉にあがったりした。
この夏、ヒットラーの親友でナチスドイツの駐日オットー大使が原町を訪問。
植松将軍は軍人政治家となっていた。笑顔で町に乗り込んだ大使は、日本文化を絶賛し、ヨロイカブトを身につけて騎乗して記念写真におさまった。この年の植松将軍は前年から講武会長となり、総大将として参加した。
原町国民学校の児童は日独両国の国旗を打ち振って歓迎した。
植松代議士は馬上から降りて大使と握手。「盟邦ドイツとの親善に心から熱誠な歓迎をする。この野馬追は一千年の伝統を誇る神事で、小藩相馬がよく大藩に伍して明治維新まで封土を全うしたのは一に祭政一致の野馬追の武士道精神によるものである」と述べた。
外務省通訳からこれを聞いた大使は、
「大東亜戦争に皇軍兵士の嚇々たる戦果をかえりみるにつけ、その影に武士道で錬成された大和魂を見逃すことができない」
と日本精神を讃えた。
作曲家中山晋平、町田嘉章らがビクターレコードの宣伝部員とともに中村に来町。
相馬民謡の本物で、二編返し、麦搗節、相馬節、流れ山などの情緒たっぷりの歌曲を聞いて「さすが相馬独特の」と感銘したという。彼らは原町でも野馬追を見物した。
相馬農校生徒は大楠公剣舞や神楽まで遠来の客を楽しませた。
新聞紙面は各面にびっしり「大東亜の礎」と題する戦死者の氏名が埋められている。
娯楽は極端に少なく、映画の紹介ばかりがやたらに目立つ。
この年、原町役場が新築されている。

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