凱旋将軍植松練摩

昭和七年、日本は中国に対する侵略を進めてゆく過程で上海事変と称する軍事介入を行った。
一月、一人の中国人が桜田門外で天皇に爆弾を投げつける事件が起き、上海では日蓮宗の日本人僧侶五人が中国人によって死傷された。これに対する報復として在留邦人の武装集団が中国人企業を襲撃して放火した。こうして中国人とは日本人の間に衝突が起こり、上海の日本海軍陸戦隊が居留民保護を理由に軍事行動を起こし中国人街に進入。この時の作戦司令官の一人が、相馬郡鹿島町出身の植松練摩少将である。
上海事変は関東軍が満州国を作るにあたって、欧米列強の目を中国東北部から上海に目をそらすための謀略だったと言われる。
しかし日本国内の世論は、上海陸戦隊の活躍に目をうばわれ、凱旋将軍となった植松は、七月郡山と福島、中村で大変な歓迎を受けた。実際この赤ら顔で鉄兜の将軍の凱旋パレードは大々的に行われ、かつ報じられもした。
地元の相馬地方での植松の人気は沸き立った。
折りしも相馬野馬追が始まろうとしていた。地元民は植松の出馬を要請し、それが実現した。
世はまさに軍人の時代。
植松はのちに地元選出の代議士になっている。それだけに戦中地元での人気は不動のものだった。

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植松 練磨(うえまつ とうま、1883年4月30日1948年8月22日)は、日本海軍軍人政治家。最終階級は海軍少将衆議院議員

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