駅夫
大正九年四月二十六日、久保田は国鉄富岡駅の駅夫として勤め始めた。数えで二十歳の春で当時としては遅い就職だった。個の日の朝、両親の笑顔に送られて意気揚々と出勤したが、印袢纏の巻き脚絆姿。すぐに銀ボタンの小倉服が支給されて駅夫としての初仕事についた。五月十五日に官制が公布され鉄道院から鉄道省へと引き継がれた日本国有鉄道仙台局の管轄に移った。
久保田の身分は試傭の駅夫。本採用前の一定期間の採用である。この年は一般的な好況に沸いた年で駅夫の日給は55銭だが、倍額の一円十銭を支給された。
職務は、朝七時点呼。直にランプ掃除に着手。電気がなく灯油ランプを使用。レssが運行の条件を指示する遠方場内・通過・出発の各信号機は昼間は腕木で指示。日没から翌日の日の出までは色灯の表示。転撤器の定位は昼間は中央に白色旗を、横に一条描いた群青色円板。反位は黒線を矢筈形に引いた矢羽板。夜間の定位は紫灯。反位の場合は橙黄色と定められていた。さらに隣駅竜田との間に長さ180メートルの長い金山トンネルをもつ富岡駅では全列車の組成を確認していたので、長いトンネル内での確認は色灯による。すなわち上りの全列車後部の赤色円板を外し、聖職等にかえる。下り列車はその逆の作業が義務づけられていた。
個数は上下線別に柱三本ずつで各四個、計八個、標識灯は上下中線で計八個。
それに合図灯五個の全部で21個あった。注油から芯切り「ほや」の掃除と大変だった。
次は便所掃除、と駅内で使用する雑用水汲み。水道がない時代の水汲み場には大甕が備え付けられていて、これを満たすだけでも四往復を要する重労働であった。これが終わると駅長・助役の官舎の風呂水汲みから炊きつけまでだが、これまた大変な仕事だった。
これらの仕事の合間に客車の発着の都度には駅名喚呼もしなければならない。貨物列車の入れ替え作業では連結・解放などの危険な仕事もある。個の頃の連結器は鉄の鎖のついた螺旋をもつ連環連結器という代物。こうして多忙な一年が過ぎ、ようやく転撤手に昇格した。
転撤手、制動手、庫内手などの職種があった。

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