野馬追臨時列車の増発

 明治33年6月30日民報。
 △二日の野馬追は午後二時頃に終るを以て原の町より上り列車に投ずれば二十分にして小高に達す小高町に於てはこの夕凱旋記念祭あり煙火炬火行列夜を徹す極めて壮観なり
 △臨時汽車及割引 大祭三日間臨時汽車数回増発し又割引は前号記載の如く片道四割引を為すと云ふ
○相馬祭と臨時汽車 別項の如く七月一日より三日間は相馬の野馬追祭なるを以て日本鉄道会社にては其三日間仙台中村間及び平富岡間は増車中村富岡間は各々数回の臨時汽車を発する由なり

明治37年7月3日 福島新聞
●野馬追と臨時列車  相馬野馬追には日鉄に於て毎年臨時列車を運転し来り本年も之れを運転する由なるか本年は或事情の為め列車に不足を生じ居る場合故臨時列車は例年より其数を減じ普通列車に出来得だけの増車を為すに至るべしといふ

ある事情とは、日露戦争の兵員移送で客車が足りなくなっての減員と思われる。

明治37年の列車割引き運転
この年、野馬追の日程が7月1、2、3日から11、12、13日に変更になった。
〇汽車割引 野馬追祭に付日本鉄道会社にては左記各駅間に於ける汽車賃に限り来る十、十一、十二、十三の四日間二割低減をなすと云ふ
福島、仙台間と平、亘理間の各駅
小高、磐城太田、原の町、鹿島、中村五駅との相互間

明治44年の野馬追臨時列車
△臨時の列車 海岸タイムス社に寄ったら野馬追特集で多忙最中「時に臨時列車はあるか」と聞いたら「あるともある、なんぼうでもある。」大変な勢いで野馬の様に其処で時間割を見ると十二日は不通の□に是程なんぼでもあり。
上り           下り
午前七時四十八分    午前八時五十分
午前十時三十分     午後四時四十分
午後五時○分 以上原町発車

大正11年 野馬追臨時列車 三日間の乗客 非常に好調
▲ 十一日 小高駅一〇一四人、磐城太田二八三人、原町一二六三九人、鹿島一一四九人、中村三〇六八人
▲ 十二日 小高駅二九七〇人、磐城太田五九一人、原町一二六三九人、鹿島二五三七人、中村三〇六八人
▲ 十三日 小高駅二九七八人、磐城太田四〇八人、原ノ町二五六一人、鹿島九三二人、中村一五一五人

昭和6年野馬追に 臨時列車運転
十一、十二日の常磐線
相馬野馬追祭もいよいよ近づいたので仙台運輸事務所では見物人の便宜をはかって十一、十二の両日左の如く常磐線の臨時列車八本を左の如く運転することになった
◆ 十一日一ノ関原町間(午前八時二十五分発)◆十二日中村原町間(午前八時十分発)原町新地間(午後三時二十五分発)新地原町間(同午後五時十五分発)長塚原町間(午前八時発)原町長塚間(午後三時五分発)原町長塚間(午前六時三十五分)長塚原町間(午後四時三十分発)
(昭和6年7月9日民報)

昭和16年 臨時列車を増発

仙台鉄道局では相馬野馬追祭の参観人殺到を見越し十二日の一日だけ常磐線原町駅を中心として平=仙台間に特に乗客専用臨時列車上下十本の増発運転をなし観客の雑踏、緩和に乗出すこととなった、すなはち午前中は仙台より原町へ向け二本、富岡及び浪江より原町へ各一本づつ午後は原町より仙台へ三本、並に富岡、長塚及び平等へ各一づつを運転するものでその発着時間は左の如くである

原町以北
▽ 仙台―原町間(上り)仙台発午前六、五〇―中村発八、一一分―原町午前八、四五分着
▽同(上り)仙台発午前八、〇八分中村九、三二分―中村九、三二分―原町午前一〇、三分着
▽ 原町―仙台間(下り)原町発午後二時五三分―中村三、五一分仙台午後五、一二分着
▽ 同(下り)原町発午後六、二七分―中村六、五九分―仙台八、二四分着
原町以南
▽ 富岡―原町間(下り)富岡初午前七、二一分―浪江八、一二分ー原町八、四四分着
▽ 原町―富岡間(上り)原町発午後三、一五分―浪江四・〇〇分―富岡四・四四分着
▽ 原町―平間(上り)原町発午後五・一〇分―浪江五・四六分―平七・四四分着
▽ 原町―長塚間(上り)原町発午後六・一五分―小高六・三六分―長塚六・五八分着
「中村駅前に案内所開設
中村観光協会では野馬追繰出しの十一日外来の見物脚案内のため中村駅前に案内所を設置役員並に青少年団員が各列車毎に派出、不案内の外来客の便宜を図ることにした
(7月10日民報)

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