磐城太田駅の寂寥

磐城太田駅 明治34年4月18日民報「相馬郡太田村通信」には、こうある。
「▲停車場 太田停車場は乗客貨物とともに至て少なく近来甚だ寂しき方なり(銃後日報)」
また翌年の明治35年の太田村通信にも、磐城太田停車場の淋しい状態について
「〇相馬郡太田村通信 ▲磐城太田停車場は例に依て客足至て少なく貨物の集散等も亦渉々しからず」(明治35年11月19日民報)
「〇相馬郡太田村通信 ▲停車場 昨今乗降客寂寥貨物の集散も又渉々しからす同駅前武田丸通店にては今春中より東京及福島諸新聞の取次販売を開始し居るが頗る好評なり」(明治35年12月3日民報)
原町市史には、太田の西方治が磐城太田駅の誘致に尽力した恩人であるとしてあるが、開業以来、新聞に太田村通信が掲載され「停車場」が搭乗するたびに、こうした寂れた寸評とともに現れる。西の政治力はたしかに大きなものだったろうが、政治の力で誘致して百年間お荷物になった駅が日本全国にずいぶんあった。

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